11,12,13,14,15,16,17,18,19,20
短い話です。創作です。漫画的です。寓話的です。
面白い、のではないか、と思って書いていますけど、何か。
1 神の言葉 神の言葉を聞いた。 その言うとおりするなら天国だ。 違うと地獄だ。 実はこういうことだ。 私の前に現れた神が言った。 この間マクドナルドでマックシェイクを飲んでいた昼下がりであった。会社で叱責を受けて逃げ出してきた。失敗したのは悪いとは思うが、課長め、人を虫みたいに言いやがって。殺すぞ…… 窓際のスツール、外は夏の日差しが広がっている。シェイクが残り少なくなって、ズルズルと空気も一緒に吸う音がした。残りの量を確認するように、底の縁にストローの先を押しつけてグルリと回した。一周、二周。三周目にコツンと何か固形物に当たった感触があった。かき回すと何かある。さっき無かったのに、ん?、と思って蓋を開けてみた。 また、ん?、っとなった。 小さな大仏がいる。 小さな大仏とは変な言い方だが、奈良の大仏のミニチュアとしか言いようがない。ボコボコの頭、丸い顔、坊さんの服、座禅、裸足……それに、あのクルンとした小さな髭、なんか笑える。 えっ?、とか思っていると、大仏が話しかけてきた。座った姿勢を崩さず、顔を動かすでもなく、直接私の脳の中に話しかけてくる。 「私は神だ」 —仏でなく? とか思ったが、そもそも、何だ、これは? そう考えていると、言葉が頭の中にドンドンと聞こえてくる。 「今、殺したい、と思っただろ。その願いを叶えてやるぞ。私にとってはいとも簡単な事だ。そうなると、どれどれ、君の職場は天国になるだろうな、嫌な奴がいなくなるから。ただし、条件がある。隣の人間を拳で殴れ、それが条件だ。普通の人間に見えるが、コイツは我々にとっての疫病である。どこがと聞かれても、言う必要が無いから言わないが、コイツ、君の拳で退散させることができる。それが交換条件だ」。 隣のスツールに大学生らしき若者がパソコンでワープロを打っている。善人顔で、仏の敵とは思えない。しかし、まあ、人は見かけによらないものだ。しかし、この大仏は偉いはずなのに、この大学生を殺せないのか? 「さらに言うと、この話を聞いて、それを実行しないと、今度は、別にもう一人、誰かを君にとっての悪魔になるように変える。さしずめ、君の奥さんかな?」。 —今以上の悪魔になりようはないと思うが。 「さぁ、どうする? 殴るのか、殴らないのか?」 —さて、さて、どうしたものだか? 家で溶け崩れた餅みたいに寝ている奴がどう変わろうが、特に何の良心の呵責も感じない。しかし、この大学生は……この大学生を殴って、なんか、人を間違えました、なんて、後で言い分けができるか? いや、殴ったら消えるのだろう、大学生が、漫画みたいに。違うのか? このストーリー的にはそうだろう? 迷う。天国か地獄か。 「早くしろ、迷っている暇は与えない」 天国か地獄か。 決断の時が来た。私は拳を握りしめた。胸がドキドキする。手が動かない。大仏が焦っているのか、私を急かす。 「さぁ、さぁ、さぁ、こんなこともできないなら、お前はウジ虫だぞ」 私は力を込めて、拳を上げて、力一杯に振り下ろした、マックシェイクに。 —お前も、虫扱いにするな。 バンという打撃音とカップがグシャリと潰れる音がした。プラスチック容器が潰れ、少し残っていた中身が、神ではなくてシェイクだけが、少し飛び出して、テーブルを汚してしまった。私は慌てて近くに供え付けの紙を分厚く取りシェイクを拭き取った。隣の大学生はチラリとこちらを見たが、気にせず作業を続けた。善人らしく騒がない。世の中には変な奴がいるから関わらない、という態度だ。店員が何事かと寄ってきたが、ちょっと思い出し怒りが出て、とか言って謝った。 「思い出し怒りって時々ありますよね」と店員はお愛想を言ってくれた。あるか、そんなもの… 私は、ハハハ、と笑った。 明日はまたあの仕事場へ戻ることになるのだろう。その前に悪魔が支配するアソコへと帰らねばならない。 悩んだけど、結果、地獄、ってことは間違いなかったか。しかし、どっちの選択でも同じだったかも。迷い損だったな。 外は明るく、夕暮れの涼しさが染み渡るにはまだ時間があった。悪魔に会うのはまだ早いだろう。

2 オカリナの音 私が夕方予備校へ行く途中である。駅のコンコースでオカリナを吹いている路上パフォーマーがいた。ピロロローって感じで、私的には良いとも悪いとも言えない、要するに、どうでもいいパフォーマンスであった。コンコースの半分閉じた空間で、音は良さげに反響していた。 予備校に週三で行っていて、その度に見ていたが、ある時、いつも立って吹いているのに、椅子に座って吹いていた。気付いたのはそれだけであった。ピロロローって感じは変わらない。 あら、座っているわね、位。 しかし、一週間後、チラリと見ると横に松葉杖が置いてあって、あれれっ、とさらに良く見ると、右足がないのか、ズボンが平らで靴がない。でもって、さらに良く見ると、サングラスをしている。日暮れてますけど、ふん、ミュージシャンのファッションなのかな、と思う。だけど、あら、そうって感じで記憶に残った。 次に見ると、左耳がない。 さらに、次に見ると、鼻がない。 ピロロローって感じは同じで、駅の利用者は特に何も気付いていないようで、誰も見向きもしない。 いやいや、世間は誤魔化せても、私は誤魔化せない、これは何かがある。私はパフォーマーの前に立った。私一人しかいない。しかし、言葉をかけづらく、じっと立ち尽くしていた。 ピロロローピロロロー その間、じっとこの人を見ていたが、サングラスをしているのは、右目がないからなのが、その暗いガラスを通して分かった。 「どうしたんだい、お嬢さん? 何か御用でも?」。彼は演奏を止めて聞いた。 「あの、その、えっと」 「なんだい、遠慮しなくて良いよ、聞くのはタダだ。音楽を聴くなら、お金を少しは欲しいがね」 「…」 「んん?」 「体、です」 「体?」 「なんか、少しずつ無くなってません?」 「ハハハ、なに、そこに気が付いたの。バレないと思っていたのに」 ———そう思う根拠は何? 「バレちゃったか」 ———ちゃったか、じゃないでしょう… 「あの、どうかしたんですか?」と私が聞くと、彼は、 実は、 とこんな話を始めた。 俺の友人に魔人がいるんだ。ほらさ、あの、アラジンに出てきそうな、上半身裸で、顎髭で、頭ハゲで、ぶかっとしたズボンを履いた奴。俺のアパートに来ては、なんだかんだ、話していく。ご多分にもれず、交換条件で願いを叶えてあげる、という。で、また、なんだかんだとやり取りをしていると、こんな事になった。今は冷戦の核兵器の恐怖の時代だろ—」 「塾でこの間世界史で習ったものですね、大陸間弾道弾、とかなんとか」 「そうだよ。それでさ、それじゃぁ、平和になれないじゃんって、俺は、そのミサイル一つを無くしてくれって、頼んだんだよ」 「素敵ですね」 「だろ。でもさ、向こうの条件がさ、ミサイル一つを消すから、僕の体の一部を一つくれって、言うのよ。ちょっと待てよって感じだよね。体がなくなるんだ。でも、よくよく考えたら、この世がミサイルで無くなったら、体が全部無くなるんだろ、だとしたら、嫌じゃない? ならば、少しでもって、さ」 「うーん、世界平和に犠牲が必要かもってのもありますね」 「だろ。だから、良いよって、そこで契約したんだ。それが続いている」 彼は、凄く立派な人であった。人は謎が解けると、心が軽くなったようで嬉しい。 「素晴らしい話が聞けて、ありがたく思っています。明後日から受験で一ヶ月位いなくなりますけど、今度会ったら、会えるのかな、体が沢山無くなっていますね」 「まぁ、全部は取るなよって、魔人には、そう言っているよ」 なるほど、あれだけニュース等で世界の終わりが近いと騒いでいるのに、一向に終わらないのには、こういう立派な人がいるんだと感心した。ノーベル平和賞を上げたいくらいだ。 私はお礼を言って去って行った。ピロピロピーが後方から聞こえだした。 私の受験の間には、世界はなんとか終わらなかった。有り難いことだ。 受験の発表を見るまで帰ってこなかった。帰ってきたら、世界が続いていることへお礼を言わなければと思い、久しぶりに、駅前に行った。相変わらずのピロピロピーに、嬉しく思った。遠くから見ると、なんと数名が囲むように座っているようだ。ファンが付いたのかな? 私も側に寄った。 しかし、そこで見たのは、唇とオカリナと指だけだった。それが空中に浮いていて、音楽を奏でている。 本当に有り難い……限界まで犠牲にしたんだ…… 世界の平和のためにここまでしてくれたなんて…… でも、音楽はできているから、良かった、良かった。 おかげで、平和な世界で大学生活ができますわ、と私は心で唱えて、数ヶ月前からすると何十分の一になった彼にお辞儀をした。

3 パパ、劇を見に来てね ——私はあなたが愛してくれたのを嬉しく思っています。私にとっては何物にも代えがたい存在です。ありがとう、ありがとう、ありがとう…… 「いいわね、お上手、立派な女王様のスピーチになっているわ」と先生が言う。 私は少し照れた顔で、褒めてくれた感謝の意を表して、コクンと頷いた。私は女王、目の前のコウ君が国を悪魔から救った英雄。「愛してくれた」、は恋愛感情の愛ではなくて、愛国心的な愛なのよって、先生が強調しているのを、うまく表現できたらからの褒め言葉かなって、思う。 でも、分からない。ただ、目をこう大きく開けて大きな声で言っているだけなのに。 「ここまでやれば、もう明後日の本番は大丈夫でしょうね」 私はまたコクンと頷く。 「家の人も来るでしょうから、頑張りましょうね、みんなぁ」 ハーイ、先生! そうだ、パパも見に来るって言っていた。 嬉しい。 運動会に学芸会になんとかの会、これこれの催しに来たことがないパパ。今回は行けるよ、と言った。いつも自分だけ家の人が来ないので寂しい思いをしていたから、嬉しい。 ママが天国に行ってしまってから、パパはずっと忙しいから、学校に来られないのは分かっていた。 「いや、もう、今度は行けるからね」 「ほんと?」 「女王って、なんか凄い役なんだろ、そりゃ、見ないとなぁ。マヤがやると、可愛いだろうよ」 「うーん、どうかな、でも、頑張るわ。パパが見てくれるンだから」 「そうかぁ、楽しみだなぁ」 向こうのキッチンでバァーバが皿洗いをしている。こっちを向いて「良かったねぇ」と言っている。 私はパパが座っているソファの横に来て、その手をギュッと握った。 「おいおい、何だ?」 「来る約束、嘘ついちゃ嫌よ」 パパはギュッと握り返した。暖かくて大きな手だ。 「大丈夫さ、この頃、Gも落ち着いているから、暇なんだよ。今がチャンスだって感じ」 「ホントにホント?」 「おう、絶対だ」 G…… 怪獣の王、度々日本に現れる。現れて、都市を破壊しては消える。未だになぜ日本にこうも頻繁に現れる理由は判明していない。 父は国連G対策センターの隊員である。初動対策オペレーション業務に従事していた。父は、目撃情報を受付けて、襲撃対処警報を行うと共に、攻撃チームに情報を発信している。いわば、警戒役をしてるから、定時の仕事意外にも、緊急招集が多い。ママがGの猛威の間接的な被害で命を落としているので、残業をかなり引き受けて、尚更勤務に励んでいる。激務を厭わない。むしろ、そうすることでママを失った悲しみを抑えているのだ、とバァーバが言う。 「G,来ないんだ、そっか」 パパは満面の笑顔でコクンと頷いた。だーいすき、パパ、って顔を私はしていたと思う。 しかし…… パパは来なかった。 「また、お仕事かな、仕方ないか…」とはならなかった。ステージからパパの顔を探しながら、悲しくなった。今回は、猛然と怒りが込み上げた。「絶対だ」で私は期待がマックスになっていた。私の王女は、無表情な鋼鉄の女みたいになった。 「死ね」と心が叫んだ。 ——私はあなたが愛してくれたのを嬉しく思っています…… 誰が愛してやるもんか、とパパの事しか考えずに、台詞を言った。表情と言葉遣いが練習と違う。言われた相手役の男子の片目が吊り上がり、少し怖がっていた。 劇は終わった。観衆の拍手が聞こえる。 私は、人生最悪、っという顔で、舞台袖に向かおうとそちらの方を向いた。 そこに、バァーバと担任の先生が立っていた。二人の顔が暗い。 バァーバの車に乗っていた。バァーバは厳しい顔をして車を飛ばしていた。病院に向かっている。 父が危篤だという。 もぉ、期待と裏切りと恐怖のジェットコースターの一日だ。パパの仕事上、覚悟はしていたのだが、震えるしかなかった。 神様…… 病室のドアの前に、スーツの男が立っていて、私達が近づくと、一歩前に出て話し始めた。 「お父様、あの、異常事態の緊急報告が来て、でも、その、実行部隊がちょうど別件で出払っていて、現地に自分が行くと飛び出して…そこに、ラドンが急襲して…」 病室から看護婦が出てきて、この言葉を遮った。すぐに、中に入れと言う。男はアワアワした。 すぐって、 あぁ…… あぁ…… 手の施しようがないんだ。 バァーバと二人で中に入った。 医者と看護婦がいて、父が、父が、父が…… なんかの機械がピコッ、ピコッと鳴っている。 医者が頷いた。 私はわっと泣き声をあげて、パパにしがみ付いた。泣くしかなかった。「死ね」なんて言うからだ、と後悔した。その皮肉に心が引き裂かれるようであった。 私の泣き声が部屋に響くだけだった。 すると、私の後頭部に感触があった。この感触はパパの手だ。 まだ、生きている……? 「ごめんな、劇を見られ…なくて…」と薄目のパパが私を見ていた。 「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」 「いや、それはこっちが言うこと…だ…ろ。見た…かったよ」 その時、バァーバが私の耳に囁いた。 そうよね、と私は思った。 私は立ち上がった。両手で涙を振り払った。大きく息を吸って、ぴょこんと頭を下げた。 見てね、パパ…… ——私はあなたが愛してくれたのを嬉しく思っています。私にとっては何物にも代えがたい存在です。ありがとう、ありがとう、ありがとう…… パパは少し微笑み、そして、全体の力が抜けた。 この瞬間に、なぜか、将来、国際G対策センターで働くことを決意した。

4 スタバのプレーリードッグ 大きな都市の郊外。広い駐車場があるスターバックスコーヒー店。店内にはほぼ満員の客。その入り口の外側のファサードの隅に、北欧調デザインの黄色の椅子が置いてある。風雨に晒されているから、少し色がくすんでいる。 その真ん中にプレーリードッグが座っていた、チョコンと。立っているのだろうが、チョコンっという感じの座る姿勢。 客がそこを通る度に立ち上がり、その客の動きに合わせて体を回す。可愛い手を、祈るように前で握るポーズ。 帰る客は一瞥するか無視するかぐらいだが、来る客の中には、この小動物を見て、きゃ、可愛い、と声を上げる人もいる。特に女性に多い。 今日もそんな女性が二人、二十代に見える。一人はユッタリ目のガウチョパンツ、もう一人はスリムなデニム。 「まぁ」とガウチョパンツ。 「可愛い。プレーリードッグだわ」とデニム。 「どうも、こんにちは」とプレーリードッグ。 「あ、あ、こんにちは」と女の子二人。 「あの、いいですか、私、ここにいるんですけど、それは——」 「そう、なんでいるんですか」とガウチョパンツ。 「なにか理由がありそうね」とデニム。 「そこなんですよ、よく聞いて下さいました。実は——」 「実は?」と二人。 「はい、私、ここにいるのに理由があるのです」とプレーリードッグは小さな黒目を輝かせた。これが、可愛い。 「理由?」と二人。 「理由です。ここにいるには、謎の答を聞かないといけないからです」。可愛い手でお願いのポーズの小動物だが、顔の真面目な表情に、なぜか二人は哲学的な問いでも言うのではないか、と思って聞いた。 「謎って?」 「えぇ、謎です。聞いてもらえます。どうも、いいんですね。それでは聞きますよ。あの、コーヒーの種類に、カプチーノとカフェオレとカフェラテ、ってミルクが入ったコーヒーがありますよね」 「うんうん」と二人。 「この三つの違いって知っています?」 「まぁ、可愛い謎、だこと」とガウチョパンツ。 「まさに、スターバックスにピッタリだわ」とデニム。 プレーリードッグの首が左右にピコピコ動いて、二人の顔を交互に見る。「どうです。ご存じですか?」 「そう言われたら、なんか分からないわねぇ」とガウチョパンツ。 「そこらへん、なんか適当に選んでいるみたいだわね。良い感じの洋風コーヒー牛乳、って感じで。無知でゴメンナサイねぇ」とデニム。 「いやいや、そんな。また、次の人に聞きますから」。可愛い顔を縦に動かして、お礼のお辞儀をする。二人は、じゃぁね、と店の中に消えていった。 次の客に聞いたが、分からない、だった。 次の次の客も。次の次の次も。 そうやって、また一日が過ぎ、またまた一日が過ぎ、雨の日、曇りの日、風の日も来た。 ある時、ある少年が来た。眼鏡をかけて、白のワイシャツに黒のズボンという夏の制服を着た高校生であった。 同じように、プレーリードッグは拝む手とキラキラの小さな黒目で聞いていた。 「あぁ、それね、知っているよ。何せ、僕ってクイズ研究会に所属していてね。雑学を勉強してのクイズマニアなのさ」。高校生は眼鏡がキラキラした。 プレーリードッグがザワついた。体が固まったようになった。鼻がヒクヒクした。 「それはね——」と高校生は答えようとしたが、プレーリードッグの背が伸び上がった。 「いやぁぁぁあぁぁぁ」とプレーリードッグは叫んだ。 「ど、どうしたの?」 聞かれたプレーリードッグは叫び声を止めて、力が抜けたように肩を落とした。 「いやぁ、失礼しました。その、あの、答をですね…」 「答がどうしたの?」 「答を言わないでください」 「なんで? 聞いたのは君の方だろう」。プレーリードッグはそうですけど、と首を数度縦に振る。 「ごめんなさい。いや、答を聞くとですね、困るんです」 「困る?って、訳が分からないなぁ。そのために、そこにいるんでしょ」 「質問をするためにここにいるんですが、でもね、皆が答を知らないということが前提でして。答を聞いてしまったら、私がここにいる意味がないのです」 「ややこしいなぁ、でも、プレーリードッグ的な思考では、そうなるのかもね、なんとなくだけど」 「私の生きる理由が無くなる訳です。ですから、ゴメンナサイです」 「別にいいけど…でも、生きる理由が無くなるって、辛いよね。人間も……人間はどうかな? そんなものない人ばかりのようだけど。僕もそうかな」 「ホント、ゴメンナサイね。頭が悪いプレーリードッグをお許しください」 「別に頭が悪いなんて、気にしてないから、じゃあね」と高校生は店の中に入っていった。プレーリードッグはお尻を落として座る姿勢を取った。風がさっと吹いてきて、プレーリードッグの髭を揺らした。風の臭いを確かめるかのように、鼻をヒクヒクさせた。風は、生きる理由を奪われなくてよかったね、と言っているようであった。

5 注文が多い料理店 二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、歩いておりました。 「ハンティング、今日は駄目でしたね。日が暮れてきた」 「いろいろと同好の士やハンティングサークルの情報でいけば、この当たりにトリケラトプスがいるってことだったが」 「人気の恐竜ですけどね。この山中にいるなんて、ガセの情報でしょうか」 「結構信頼のある情報筋だっと思ったけど、やっぱり、山の中はないよな、こんな」 「やっぱりですね」 情報を信じたのが馬鹿だった、という感じで、山の中を彷徨う二人、道に迷い日も暮れて腹も減ってきた。この時刻、予定では山の麓の温泉宿に届いているはずだが、野宿の可能性もでてきた。 「暗くなってきましたが、どうしますか」 「まぁ、ここは、どこか、野宿することにしますか、まずは腹が減りましたね」 「そうですかねぇ、そうしますか、この時期の落ち着いた天候ですから、熱からず、寒からずで、夜も過ごせそうで……や、や、や、向こうに明かりが」 「ほんと、明かりだ、宿かもしれぬ、行こうではないか、君」 二人は、有り難い、と歩を進めた。トリケラトプスは、ヤッパリ、簡単じゃない、とか話した。木々、灌木の間を抜けると、目の前に西洋風の一軒家が現れた。 「あらら、家があって、なんか、看板みたいなのが出ているぞ」 「ホントだ、なになに、こう書いてあるぞ」 RESTAURANT 西洋料理店 WILDCAT HOUSE 山猫軒 「君、ちょうどいい。ここはこれでなかなか文化が開けてる土地ということか。入ろうじゃないか」 「おや、こんなところにですか、おかしいですが。しかし、とにかく何か食事ができるんでしょう、看板からすれば」 二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんです。 そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。 「トリケラトプスハンター様、どうかお入りください。決してご遠慮はありません」 こりゃ、いいと、二人は喜びました。 「ふふふ、トリケラトプスって、やっぱいるんだ。で、人も来ている。この店ときたら、ブームに乗っかっている、ふん、まぁ有り難い」 「ご馳走があるんじゃないですか、商売のチャンスは逃がしたくない」 硝子の開き戸を押して中に入ると、そこは廊下で、金文字でこう書いてあります。 「食通で、グルメを尽くした、おそらく肥った方は大歓迎です」 「君の事かね」 「いえいえ、そちらでしょう」 二人が歩くと、さらに扉が出て、そこにこう書いてあります。 「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください。しかし、最高の美味をお出しします。」 「なんだろうね、注文が多いって。でも、味は最高だって。」 「最高の味のために、ほらほら、細かく好みを聞くんじゃないのですか、ほら、ラーメンの一蘭のように」 「麺の硬さとか、ネギがいるかいらない、とかかね」 「そうでしょう、西洋料理ですから、チーズの好みとか聞かれそうですけど」 また、扉に来た。そこも金文字で書いてある。 「お客様が、ここの中に入る前に、お持ちの銃器を目の前にあるテーブルに置いてください。お客様が何の武器も持っていないと分かるとこの扉が開きますので、お進みください」 「味の好みではないんだな」 「いや、なにかドレスコード的なものじゃないのですかね、高級店のやり方ですね。従いましょうよ」 二人はハンティング用のライフルを指定のテーブルに置いて、扉を開けて中に入った。入ると、扉がある壁に金文字でまた書いてあった。 「そこに置いてある着ぐるみを着て、椅子に座ってお待ちください」 「本当にいろいろと注文するね」 「そうだね、これを着ろ、ってことね」。目の前に布の塊のようなのが二山ある。手に取ってみると、どうやら動物の着ぐるみである。これを着るんだと、二人は素直に注文に従う。着てみると、薄茶色の山猫が二匹出来上がった。頭部の二ツ穴を通して、二人は目を会わせた。 「やや、山猫だね」 「これを着て座るんだね。すると、食事がでてくるのかな」 二人はジッと椅子に座って待った。着ていると熱くて、数分で汗が出だした。段々と汗が噴き出るようになってきた。 「まだなんですかね。暑くてたまらんのだが」 「まだなんでしょうね。喉が渇きますね」 三十分も経つと、天井から金文字で注文が書かれた板が降りてきた。 「着ぐるみを脱いで、また自分の服を着て、向こうの扉から入ってください。 「だそうですけど」 「だそうですね。早く脱ごうか」 二人は着ぐるみを脱いで、元々着ていた着物を来たが、汗でグッショリになった。二人は扉を開けて中に入った。足取りが少し蹌踉めいていた。 体育館といえるような広い空間であった。 「なにか、広いところに来ましたね」 「広いよね。ここがダイニングホールなのかな、ガラーンとしている」 静かな空間にいると、二人は床に微かな振動を感じた。何なのかと思っていると、反対側の、少し、大きな扉が開いた。扉の向こうに大きな黒い影が見えた。その影が、フウっと大きな息を吐くような音を立てた。すると、ヌルッとユックリと扉を越えた姿を現した。 「????」 「????」 巨体である。サイのような体だが、角が三本ある。鼻息が荒い。二人を睨んで、気を溜めているようなポーズを取る。もう、まさに突進しようとしている、臨戦態勢だ。二人にもその戦闘オーラが分かる。 金文字で扉に書いてある。 「必死で逃げてください。逃げるとご馳走があります」 「トリケラトプスだな、来るぞ、これは」 「来ますね、これは。ここで現れるんです」 恐竜は突進してきた。二人はかわすと、恐竜は壁に激突して、横転する。ぶつかった壁がひび割れている。二人は力の限り反対側に走るが、恐竜は起き上がり、それを追いかける。また、二人はその突進をギリギリでかわす。恐竜は壁にぶつかり、横転する。その後、それの繰り返し、突進、かわす、衝突、突進、かわす、衝突。どれだけ時間が経ったか、二人も恐竜も体力が無くなっている。生きる、というサバイバルの本能だけが二人を支えている。 二人は息も絶え絶えになる。しかし、突然、入ってきた扉と違う扉が開いているのが分かる。さっきまでなかった。神が助けの手を出したように見えた。 「はぁ、はぁ、はぁ、あそこの扉に気付かなかったけど、開いているぞ」 「開いていますが、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、あそこに逃げると、扉が小さいから、この恐竜は入れませんね」 二人は直線突進のトリケラトプスの動きを推理して、それが突進してきた瞬間に、体を横に飛ばして転がり、それをかわして、その扉に向かう。生涯で一番懸命に走った。トリケラトプスもその動きを見て、それを追う。フンと鼻を鳴らして来る。二人は肺も心臓も口から出そうなくらいに走る。限界まで走った。 寸前のところで、二人はこの扉の中に飛び込むことができた。入った瞬間に、トリケラトプスが扉にぶつかったが、体が大きくて中に入れない。二人は中に入って、すぐに扉を閉めた。 この部屋は明るかった。中央にテーブルがあった。二人はそこに向かった。 「水を飲んでください。思い切り」とテーブルの上に紙で書いてあった。 テーブルには二つの大きなピッチャーが置いてあって、中には水が入っていた。二人は、堪らずに、ピッチャーの水を飲んだ。ガブガブ飲んで、フゥーと溜息をついた。 美味い! テーブルにはどこにでもあるカレーライスも置いてあった。そして、金文字で何かが書いてある紙も置いてあった。 「どうでしょうか、必死の状況をくり抜けて飲む水は、最高の美味だったでしょう」 二人は肩で息をしながら、顔を見合わせた。 二人で、ふっと笑った。 「……なるほどね、最高のソースは空腹、というけども、最高の美味は、絶体絶命のピンチをくり抜けた時のもの、ということですかね」 「どうやら、究極のメニューとか、生きるという必死の状況を味わうことだということですかね」 二人は普通のカレーライスを美味しく食べた。家のお母さんが作るようなものだ。最高に美味しかった。人生で食べてきた全ての料理を越えていた。海原雄山の弛んだ肉体が知らない至高のメニューであるかもしれない。

6 名人戦 棋士が二人盤を挟んで固まっていた。局面は煮詰まっていて、二人だけではなく、回りの人間も終わりが見えずに、苦悶の空気が部屋に満ちていた。 座った姿勢を直す時に、ズボンや靴下が擦れる音しか聞こえない。時々、障子、渡り廊下、ガラスドア、日本庭園、生垣の向こうから、微かに車のエンジン音が聞こえる。 外は初秋の晴天。この静かさ、ホテル中の緊張、日本中のファンが息を殺して見守っている。 名人の顔の眉間が、一層深くなる。すると、その目に力がみなぎり、喉の奥から絞るように、クゥっと息を吐く。 すると、盤上の桂馬が、跳ねた。 斜めに跳んでいって、そこにある飛車に当たり、それを盤外に飛ばした。飛車はクルクルと回り畳に落ちた。すすっと付き添い人が移動して、その飛車を拾い、名人の駒台に置く。名人は他の駒と揃うように飛車の駒台での位置を微調整する。駒の底が一直線上に並んでないといけない。 また、長く緊張が張り詰める。 遠くの自動車の音が聞こえる。 挑戦者も目を瞑って、ウム、と唸った。すると、角が斜めに飛んでいって、向こうの金を吹っ飛ばした。角は王の斜め前に来た。挑戦者は、力を込めて固くなっていた体の緊張が解けて、くにゃりとなった。 拾われた金が駒台に置かれた。こちらは置かれたままであった。 さらに、時間が経つ。 日本中が固唾を呑んだ。勝負が決まったのではないか、と多くが思った。 名人がフゥと息を吐き、首を小さく左右に振った。そして、唐突に 「負けました」 というと、頭を下げた。 部屋に、おぉっと喚声が上がった。日本中にもそうであった。 新名人の誕生であった。 元名人が「もう動かす力が残っていません」と頭を掻いた。 新名人も「実は私もあと一回くらいだったでしょうかな。最後の詰みの一手分だけでした」 二人とも勝負が決まった瞬間に介護者に倒れないように支えられた。 寝ずに二十時間も休憩なしで闘っていた。棋界が言う、名人戦のデスルールであった。 滅多にない、念の力切れ寸前、という決着であった。 棋界では最強の念を持つだろうと言われた二人の闘いは終わった。 観戦記者の一人が「剛の念と強の念の四つ相撲」と称した激闘であった。

7 家族会議 その晩、家族会議が開かれた。参加者は父母姉兄の四名、妹のマリナちゃんはいない、今日はまだ塾で勉強をしている時間だ。 「本日の議題を言う」と父。「今年もクリスマスが来るが、もうそろそろマリナにサンタクロースの真実を伝える時期が来るが、サンタの正体を教えるべきだと思うのだが。このところ、毎年この時期に議題に登っているが」 「却下」と母。 「却下」と兄。 「却下」と姉。 「待てよ、もう、高校三年生だよ、駄目だろう、もう」と父。 「これだけの情報社会で、いろいろな事を見たり聞いたりできるのに、まだ、信じているなんて、奇跡だよ」と兄。 「小学生の時にちょっとバレそうになった時があったでしょ。兄ちゃんが、サンタなんていないとかいう奴は、サンタを独占したいから嘘を言っているんだって言ったでしょ。純粋なマリナがそれを信じてさ。それよ、それ、原因は。マリナ、ホント、マジに手紙を書いていたもんね。あの必死な姿を見ると、何も言えないしねぇ」と姉。 「まぁなぁ、なんか、罠をしかけたみたいになってしまって、僕が悪いのか」と兄。 「別に信じたければ、信じていればいいじゃないの。それを変える必要性はないと思うんだけど」と母。 「しかし、今、教えておかないと、社会人になって、不思議ちゃん扱いになるのは確実だし、サンタの事で回りと喧嘩になるよね。サンタがいないとか、人生やり直せ、とか言ったりして」 「別に喧嘩すればいいじゃないの」と母。 「別にって、将来、揉めに揉めそうで」と父。 「父さん、じゃぁ、誰がどう教えるの? 父さんが教える? 僕は嫌だよ」 「いや、できないなぁ」 「でしょうね。敬虔なキリスト教徒に神はいない、とか理解させるのは無理でしょ。同じよ」と姉。「それよりも、それを正体の真実を証明できたとして、本人にはショック過ぎて立ち直れないかもしれないよ。心臓マヒだって、可能性有りだわ」 「おい、驚かすなよ。ヤッパリ、無理かな。教えるのは難しいかなぁ、教えられたとしても、精神を保つのは難しい。ヤッパリ、駄目か」 「でしょうね」と母。 「なんか、ある意味、怪物を育ててないか?」と父。 「実は、僕はそれが楽しかったりしている」と兄。 「兄さんは残酷ねぇ」と姉。 「もう、いいでしょ、可愛いマリナは、可愛いままで、サンタさんを信じるピュアな子ってことで。心配ないわよ」と母。 「決定だな……」と父。三人は頷く。 そこに、塾から帰ったマリナちゃんが現れた。 「ただいま、あれ、みんな、揃って話し合い? 何の話かな?」 「まぁ、クリスマスが近いって話で」と父。 「そうなんだ。そういえば、いつもしているね、この時期。私も話に加わるよ……今年も来てくれるのよね、サンタさん、楽しみだわ」とマリナちゃん。 「そうね」と母。 「うーん」と父が顔を曇らせる。他の三人は父がまさかの真実暴露をするのではないか、と思った。三人がそれぞれに同時にクリスマスがどうの、こうの、と大騒ぎして、父の言葉を入れるタイミングを消して、父の機先を制した。 「何、父さん、そんな難しい顔をして。クリスマスだよ。ははぁ、巷でサンタクロースはいないとか偉そうに言っている人がいるのよ。可笑しいわねぇ」とマリナちゃん。 「どこにでも、馬鹿はいるしね」と姉。 「まぁ、馬鹿は相手にしない、とはいうけど、友達だったら、自分がそんなこと思っているのを知られずに、上手につきあってね」と母。 「うーん、マリナは人に合わせるのが上手だから、問題ないわ。でも、ユリはなんだか意地張ったように言うのよ。嫌ね」とマリナちゃんは可愛らしく微笑んだ。 姉は、父に今年はサンタの衣装を着せようか、と思った。 兄は、ユリは殺してやると、と思った。マリナちゃんの純真のために。今までそうしてきた。 父は、この子は将来どんなモンスターになるのか、と思った。 母は、我慢の努力、我慢の努力、と心で念じた。 マリナちゃんは、信じているフリするのも大変だ、と思った。この四人の努力を無駄にしないために。上手に付き合うために。 でも、嫌いなユリはいなくなるのは嬉しいと思った。ユリの名前を出しだから、きっとそうなるのは分かっていた。

8 黄昏のライダー 「あ、失礼ですが、本郷さんですか? 本郷猛さん」。施設のスタッフに案内されて、私は、車椅子でテーブルに座っている老人に聞いた。「あぁ、私はこういう者ですけど」と名前と私の職業、著述業と書いてある名刺を渡した。不安定なフリーランスだが。 話しかけられた老人は、それを受け取ると、何だ?という顔を見上げた。左目は開いているが、右目は閉じている。老いの顔だ。チラッと名刺を見るとポイッとテーブルに投げた。なんだよ、無視している。私は近くの未使用の椅子を取ってきて、その横に置いて座った。私はユックリと言葉を噛み砕くように伝えた。 「す・こ・し、話をしていいですか、本郷さん?」 「……」 「ちょっとのお時間を頂きたい」 「……ふん」。老人は鼻を鳴らして、顎を手で掻いた。空いた片目だけをこちらに向ける。太い眉(白くなっている)、分厚い唇、鋭い眼光、往時の姿はまだ残っている。ただ、白髪の無精髭と皺を筆頭に、顔全体、体全体に老いが現れていた。 「いや、少しでいいんです。物書きをしていまして、ちょっと聞きたいことが」 「……」。全く無視して遠くを見ている。拉致が開かない。 「単刀直入に聞きますね。私、死神博士とイカゾルゲ、のことを調べていまして、話を一つまとめようと」 老人がこの言葉にピクリと反応した。「死神博士?」 「あぁ、やっぱり覚えていますよね。死神博士がショッカーになる前の話に非常に興味があって。ナチスの実験と関係があったようで…、私のメインはナチスの実験とかの、人体実験なんですよ」 老人はぽつりと言った。「あああ、私が倒した…あれね……」。その後、堰を切ったように、その闘いを話してくれた。最後はイカデビルになって……という話である。淡々としているが、パンチとキックで倒した、と話した。表情は変わらない。しかし、その瞬間を思い出して、目に力が漲ったりした。私はレコーダーのスイッチを押して、こちらは聞くばかりであった。話は続く。 ……… 「……とまぁな、こんなところだよ。懐かしい話だね」。三十分は話しただろうか、話し終わると、少し顔が紅潮し、こちらを見てニヤリと笑った。そして、白の無精髭を掻いた。 「しかしなぁ」とまた話し始めた。顔が哀しみに満ちてきた。そんな「しかしなぁ」だった。私はもう話は終った、で帰ろうと腰を浮かしたが、その時の表情に私の関心が行った。また、座り直した。 「気になる、しかしなぁ、ですけど」 「うむ、なぁ、ショッカーを倒して、その存在を潰したが……そこが人生で最高の位置でな……儂の人生もそこで潰れてしまったよ……」 「潰れたって、何ですか。話を聞きましょうか」 「ショッカーを倒して、世界は平和になったよ。その瞬間は、達成感でさ、こっちも身も心もボロボロになりながら、ライダーキックとかやって、奮闘していたからな。しかしなぁ、ショッカーがいないって、それは、儂の役目もないってことだろ。そこから、いくら変身したとしても、何の役にも立たない。人間の悪人退治ってのもなぁ、変身する必要もないから。だから、ぼぉっとしたさ、ずっと。そうなるだろ。あれ、平和を望んだんじゃないか。なんだ、平和になっても、この熱い心だけが消えずに残っている。そんなこんなでいたよ。熱い心をぶけることもできずに。でも、生活しなければならない。働かないといけない。立花のおやっさんに紹介してもらったのが、長距離トラックの運転手だ。お前、力があって、車好きだろうって、話で。バイクなんだけどな。バイクがイイッス、とか言ったかな。なら、郵便配達人か。儂は自分の郵便配達人の姿を想像してな、やっぱ、トラックでいいっすって答えて。その後、ずーとそのままで定年を迎えるまで働いたよ。真面目にね。その間に結婚して、子供が二人生まれ、子供は独立して、さて老後を妻と二人でと思った矢先に妻が天国へ行って。で、こちらも病気になって、ご覧の通り、ここのお世話になっている」 「いい人生じゃないですか。いいパパ、いい夫、ひょっとしていい爺様。良かったじゃないですか」 「まぁ、そうかもな、しかしなぁ…」 「しかし?」 「普通に幸せな人生って顔をするものの、心の中には燃え燻ったものがあってね。これは辛かったな。こっちはそんな心の中の弱みを回りに見せちゃ、男が廃るなんて思っての、やせ我慢だったかな。母さんにはバレていたかもしれないが」 「充実していなかったんですね、ライダー的に」 「トラックの運転席で一人、吠えていたよ。吠えると少しは気が晴れるからな……うむ、また、悪がはびこる時代が来ねぇかな。とか、思って。あの熱い時代の復活だ。ショッカーの復活、そんな馬鹿な願望さ。そう、儂が世界で一番平和を憎んでいたかもしれん」 熱い心を無理矢理に押さえ込んだんだ。よく、人格が歪まなかったな、と思った。しかし、正義感はここで消えている。悪、混乱、恐怖を心底望む心が生まれた。もう、それで多くの人が死傷してしまうという不安は消えている。 「ふふふ、今でも倒せるわい」と言ったところで、介護人が現れて、本郷老人の車椅子を押しに来た。私はそこでお別れの挨拶と感謝の言葉を言った。それが聞こえたか聞こえないか分からないが、また無言になった本郷老人は私を振り返ることもなく去って行った。今話した事も覚えていないかもしれない。 施設の外は夕闇が迫っていた。一日が平和に終わろうとしていた。本郷猛にとっては嫌悪すべき平和な普通の一日が終わった。 本郷猛はまた無精髭を掻く。そして、溜息の一つ二つは吐くかもしれないが、この後も、何も変わることもなく、次々に平和な一日が終わっていくのであろう。 私はその施設を後にした。

9 仕事の話 ——お待たせ、はい、ラーメン固麺とこっちは麺、普通麺ね。 繁華街を一つ二つ裏通りに入って、その奥まった所にあるラーメン店。夜も十二時近く。L字型の赤色カウンターに二人。L字の底の短い部分にいる。両名、黒のハット、黒のスーツ、黒のシャツ、黒眼鏡、要するに黒ずくめである。店の老いたオヤジは二人から一番離れた所、L字の天辺の位置、に戻って、椅子に座った。目の前に置いた小さなテレビを草臥れた顔で見入る。ニュース放送の音が聞こえる。瞑想状態に見えるが、客のプライバシーを守っているのかもしれない。そもそも、愛想を振りまく商人としての体力・気力がないのもしれない。 二人の間のカウンターに割り箸入れの器、赤い斜めの回転盤が付いたゴマ入れ、プラスチック容器の紅ショウガ入れ等がある。ただで客が食べられる辛子高菜はこの店はない。 二人は、割り箸を取って、ゴマを回転盤のつまみを回して入れたり、小さなトングで紅ショウガを入れたりした。一人は胡椒も振った。さっさっ。二人とも食べる前のルーチンのようにも見えて、動きに淀みがない。 両者、同じタイミングで、箸に細いストレート麺を数本引っ掛けて、顔をそこに寄せて、口に入れて啜る。テレビのアナウンサーの声に麺を啜る音が重なる。深夜のラーメン屋の音風景だ。 一啜り、二啜り、チャーシューを摘まみ、また、一啜り。 二人とも咀嚼をするのに、割り箸を動かす手を休める。その時、一人が、髭を生やした方が、折りたたまれた数枚の紙を懐から出して、もう一人の、頬疵がある者に渡した。 「今回の仕事」と髭。生傷は箸を丼に置いて、その紙を広げて見た。白黒の写真と何か文字が書いてある。 「簡単に説明してくれ」と生傷。 「大臣。こいつが、ある法案をゴリ押しで通そうとしている」 「ニュースで聞いた」 「で、その法案が通ると、困る連中がいる」 「なるほど」、生傷は、その困る連中の団体名を思い浮かべた。「引き受けよう」。 二人は、また、同じタイミングで、麺を啜り、レンゲで豚骨スープを啜った。そして、チャーシューを食べた。 生傷は折り目の付いた紙の文字を見た。フーン、と頷く。髭は彼が目を通すのを見ていた。 「で、細かい条件を聞こうか」 「自然に見える感じで、お宅の得意な技だろう、十日以内」 「そうか」 そして、二人は麺だけをズルズルと食べた。 「オヤジ、替え玉、固麺」と髭。 「こっちもだ、俺は普通」と生傷。 ——ヘーイ。 「報酬は」と生傷が聞く。おろしニンニクを、このタイミングで、小さなスプーンで容器から掬い自分の丼に入れた。もう一人もそれに続いた。髭は右手の指を全部広げて見せた。「五本」 ニンニクスプーンを戻して、生傷は両手の指を前に広げた。「これだろ、しっかりと、フクジョーシ、にしてやるよ」。そして、紙を懐に入れた。 ——ヘーイ、お待ち、替え玉だよ。 二人はカウンターの一段高くなった所に丼を置く。丼に入れた替え玉を、それぞれの丼に入れてもらい、それをまた自分の目の前に置く。オヤジはまた自分のテレビポジションに戻る。 「それ以下は断るのだな。嫌らしく、倍を要求と」 「こっちが倍を要求するのを知っていて、最初の提示をしたんだろ」 「……まぁな」 また、二人、同じ動きで、残りのラーメンを食べ始めて、スープまで吸い尽くす。食べる音とテレビの音しかしない。二人が吸い尽くして、フゥと、満足の溜息を吐くのも同じタイミングであった。 沈黙。しかし、二人とも、その意味が分かった。 「じゃぁ、契約ということだな」と髭。 「あぁ、いつもの通りだ」と生傷。丼を見つめている。丼には底にスープが二口分残っていた。髭はその表情を見ている。生傷も髭も最初から最後まで無表情だった。 二人、同時に楊枝に手を伸ばした。 それから、二人ともズボンのポケットから万円札を出して、一段高いカウンターに置いて、立ち上がった。 「大将、どうも、釣銭はいらないから」 「私もだ。美味かったね」 そう言うと、出口のアルミの引き戸に向かった。カウンター席だけの狭い店だから、歩くスペースは狭い。黒ずくめの二人が前後に並んで歩いた。 ——いつも、贔屓にしてもらいまして、ありがとうございます。 外に出ると、同時に爪楊枝を捨てた。野良猫が横切ってニャァと鳴いた。二人はそれに何の関心も寄せずに歩き進み、大通りに出ると、左右に分かれた。 二人の儀式が終わった。 二人が消えた空間にあるのは、外灯と焼き鳥の臭いと酔客の馬鹿声。 飲み屋街はこれからが本番であった。

10 確率 七月初旬、梅雨の時期。午前十一時半、三時間目。教室は少し蒸している。三階の教室から見ると、本日もドンヨリした雨雲がかかっている。数学Aの授業。 「白玉が五個、赤玉が三個が入っている袋から……」 この間から確率の授業である。 教室は静かで、シャープペンの先がクックッと当たる音だけがしている。教師が黒板にチョークでカッカッと板書する。 「全部が同じ色である確率は……」 「加法定理で行くと、背反する事象があると……」 ——別に何色が出ても誰も文句言わないと思うけど…… 教科書のPだのAだのBだの、Uが上下逆さまになっているのを眺めている。シャープペンの弾力を確かめるように、ノートに立てて押している。ノートを取っているのではない。芯が押し返すのを楽しんでいる。 ——こそっと、袋に青色の玉を入れられたりされていたら、どうするんだ? 卑怯な奴がいるからな。 「おい、吉田君、確率は?」 ——吉田が、五十六分の十一、と言う。吉田だから、正解だろうな。たまには間違えろよ。 「そうだな、ここは……」 ——五十六、って何だ、八かけ七か? いや、なぜ、八と七なのか? ま、いいか。 五十六分の一とノートに書いておく。とりあえず。 席が外の窓際で、斜め前方に視線をやる。真横を見ると、「余所見するな、集中しろ」と自分のやる気の無さを先生に注意されるかもしれない。第二棟があって、その上にドンヨリと曇った空だ。じっと見ていると塊でゆっくりと動いている。雲もじっと見ていると面白い。 ん? その動いている雲の中に、小さな黒い点が見えた。それが動いている。 黒板の数字より気になるので、そっちを目凝らして見る。鳥ではない。動きが直線的だ。 モーターのような回転音が聞こえてきて、その点がどんどんと大きくなってきた。ヘリコプターだ。 ん? ヘリコプターとか大事件があった時に見ることがあるが、普段の報道関係のヘリコプターでもない。自衛隊でもない。戦争ゲームから入った軍事オタクであるから分かる。 真っ直ぐに学校に向かって来た。音が大きくなってきた。 ロータリーが前後に二個、緑と茶の迷彩色。チヌーク? 軍用輸送ヘリ? 胴体に五十六という数字が見える。 ——あれれ、チアなら47だが、五十六か? 第二棟の屋上の上で止まった。軍用ヘリだ。ドアが開き、ロープが数本下ろされた。迷彩色に武装した兵隊がそのロープを降りてくる。見る角度、校舎の上縁が邪魔になって着地は見えないが、するするとロープを降りてきている。 教室は平和に和事象の勉強をしている。平和の和だなと思った。先生が黒板で丸を書いて説明している。平和な日本の平和な光景。しかし、そんな事態ではない。 ——五十六分の五十六の確率で、ミサイルが来るぞ。 深緑の影が向こうの屋上の鉄柵に現れた。迷彩服の兵隊が、しゃがんだ姿勢で、ミサイルランチャーを構えている。 ——ヤバい! すぐに机の下にもぐり、背を窓側の壁に付けて床に丸く伏した。次の瞬間、轟音とともに教室が吹き飛んだ。隣の教室からも、そのまた、隣の教室からも轟音が聞こえた。 机の天板に衝撃が来た。その勢いで机ごとひっくり返り、その脚で頭を打つ。轟音が耳に残音として残る。体にボロボロと物が落ちてくる。机の横に掛けていた体育館シューズの袋が自分の腹の上に乗っていた。体を捩りながら立ち上がり、すぐに袋からシューズを取り出して、それに足を入れる。埃と塵と硝煙が空中に舞い、視界が悪い。這うように走った。不思議だが、他の人間の姿は無い。血の匂いもしない。 ——次の一撃まで、五十六秒だ。 セメントの固まり、木材の切れ端が転がる中、教室を出る。死体は見えない。八秒経過。 廊下を走り、一番近い階段にまで達する。誰も助けないし、誰のことも気に掛けない。二十秒経過。 階段を石の手摺りを片手でついて、五段ずつ、飛び降りる。踊り場で態勢を崩しながら、二階に着く。誰もいない。二十八秒経過。 遠くに機関銃の音を聞きながら、一階に着く。生徒会の掲示板が生徒会選挙立候補を募集している。三十五秒経過。 下駄箱から外に出る。傘立てに傘が何本も立っている。雨は降っていない。四十八秒。 校門まで走る。五十五秒経過。あと一秒。 さらなる爆音。 振り返ると、さらに、数発ミサイルが撃ち込まれる音がして、ドンヨリとした雲を背景にして、校舎が真ん中から折れるように崩れていった。 学校が消えたのを確認して、歩き出した。家に帰ろ、っと。町は朝来た時と変わらない…… 「……二重線を引くところだな、ここを押さえておけば、今日の授業はオーケーだ」と言ったところで、チャイムが鳴った。 平和なクラスの平和な授業は続いていた。 ——終わった。 「終わりだ。号令!」 委員長の号令がかかる。 ——やっぱ、これだね、数学の時間の過ごし方は…… その日のニュース。シリア北西部で、病院の敷地に空爆があり、入院患者や医療関係者を含む五十六人が死亡したと伝えた。中には子供も多数いるという。現場は反体制派の支配地域で、空爆を行ったのはアサド政権かロシア軍のどちらかと見られている。 ぐったりとした子供を抱きかかえて、号泣している女性の姿も映された。 戦争のセの字も分かっていない、にわか軍事オタクの彼はこのニュースの事は知らない。 平和な国の平和な少年だ。彼の頭上に爆弾が落ちてくる確率は五十六億分の一もない。
