*なぜ鹿児島のお土産屋には西郷さん *なぜ長崎に原爆が落とされた? *なぜ太宰府には学問の神様? *別府に地獄巡り、なぜ? *阿蘇のカルデラがどうやってできた? *博多ラーメンの特徴 *博多と福岡 *熊本城の凄さ *宗教観の違い *折り紙、なぜここに? *天岩戸伝説 *仏教の諸要素 *車の軽 *原爆資料館で、見るべき4つ、私の意見 *壇ノ浦の合戦、和布刈公園で *五重塔 *鬼の洗濯板 *明礬温泉の湯の花 *有田焼 *日本酒の製造過程 *神道の諸要素 *知覧特攻平和会館 *侍とは? *天皇とは? *柳川 *博多の屋台 *東長寺の地獄極楽巡り *桜 *日本茶 *ひな飾り *青の洞門 *石炭産業 *田んぼ *明治維新 *日本キリスト教史
なぜ鹿児島のお土産屋には西郷さん
- 鹿児島のお土産屋さんでは、この男性の顔をよく見かけます。
- 漫画、人形、キーホルダー、お菓子の箱など、さまざまな商品に登場します。
- 彼の名前は西郷隆盛です。鹿児島の人々は、親しみを込めて「セゴどん」と呼んでいます。
- 昔の日本には、二つの大きな勢力がありました。
- 一つは天皇を中心とする皇室、もう一つは武力を持つ侍です。
- 17世紀から19世紀半ばまで、日本は侍の政府によって支配されていました。しかし、その政府は次第に国をうまく統治できなくなりました。
- そこで、一部の侍たちは、古い政府を倒し、天皇を中心とする新しい政府をつくろうとしました。
- その運動の中心となった地域の一つが鹿児島で、その代表的なリーダーが西郷隆盛でした。
- 西郷さんたちの働きによって古い政府は倒れ、日本は近代国家へと大きく変わりました。
- しかし、新しい政府は、侍の身分や特権をなくしました。新しい国をつくるために戦った侍たちは、「自分たちは政府に捨てられた」と感じ、不満を持ちました。
- そして、鹿児島で最大の反乱が起こりました。そのリーダーになったのも西郷隆盛でした。
- つまり西郷さんは、自分がつくった新しい政府と、最後には戦うことになったのです。
- 西郷さんの軍は敗れました。広く知られている物語では、彼は最後に責任を取り、侍らしく腹切りをして亡くなったとされています。
- 西郷さんは、日本を大きく変え、最後には故郷の侍たちとともに死にました。そのため、鹿児島では今でも英雄として尊敬されています。
- しかも、大きな体、太い眉、特徴のある顔を持ち、犬好きとしても知られていました。
- そのため西郷さんは、尊敬される英雄であると同時に、鹿児島を代表する親しみやすいキャラクターにもなりました。
- だから鹿児島のお土産屋さんには、西郷さんの漫画や人形、マスコットがたくさん並んでいるのです。
なぜ長崎に原爆が落とされた?
- 長崎は、昔から天然の良港でした。
- そのため、日本有数の貿易港として発展し、海外文化が日本へ入る窓口でもありました。
- 19世紀になると、日本は急速に近代化・西洋化を進めます。
- 長崎では大きな造船所が造られ、町は工業都市として大きく発展しました。
- しかし、この造船業が、後に長崎へ原爆が落とされる一つの理由になりました。
- 第二次世界大戦中、この造船所では軍艦なども建造されていたため、長崎は軍事的にも重要な都市になっていたのです。
- 1945年8月6日、広島に最初の原子爆弾が投下されました。
- そして3日後、2発目の原爆を積んだB-29爆撃機が日本へ向かいました。
- 実は、最初の目標は長崎ではありませんでした。
- 最初の目標は、小倉という町でした。そこには当時、日本最大級の兵器工場がありました。
- しかし、小倉は雲と煙に覆われていました。
- 当時は現在のような精密なレーダー誘導がなく、パイロットは目で目標を確認する必要がありました。
- そこで爆撃機は、第二目標だった長崎へ向かいました。
- 長崎も雲に覆われていましたが、一瞬だけ雲の切れ間から地上が見えました。
- その場所が、これから訪れる浦上地区でした。
- 港から少し離れた地域です。
- そして偶然にも、その浦上地区は、日本で最も大きなキリスト教徒のコミュニティがあった場所でもありました。
- そのため、多くの一般市民とともに、浦上天主堂をはじめとするキリスト教の中心地も、大きな被害を受けることになったのです。
なぜ太宰府には学問の神様?
- 約1,100年前、日本の中心は京都でした。
- そこでは、天皇と貴族たちが政治を行っていました。
- その頃、菅原道真という非常に頭の良い人物がいました。
- 彼は優れた学者であり、身分が高くなかったにもかかわら
- ず、努力と才能で政府の二番目に高い大臣まで出世しました。
- しかし、それを妬む政敵がいました。
- 道真は無実だったにもかかわらず、「天皇を退位させようとした」という罪を着せられ、京都から太宰府へ左遷されました。
- 彼は失意のうちに、ここ太宰府で亡くなりました。
- その後、不思議なことが続きます。
- 道真を陥れた人々が次々と亡くなり、さらに宮殿に雷が落ちて大火事が起こりました。
- 京都の人々は、「これは道真の怒った魂の仕業だ」と考えました。
- そこで、人々は彼の魂を鎮めるために神として祀りました。
- これが天神信仰の始まりです。
- 道真は大変優秀な学者だったので、やがて「学問の神様」として信仰されるようになりました。
- その信仰は全国へ広がり、日本中に約12,000の天満宮・天神社が建てられました。
- その総本社の一つが、道真が亡くなったこの太宰府天満宮です。
- だから今でも、毎年たくさんの受験生が、試験の合格を祈ってここを訪れるのです。
別府に地獄巡り、なぜ?
- 九州は火山活動がとても活発な地域です。
- そのため、九州には火山がつくり出したさまざまな不思議な景色があります。
- その代表的な場所の一つが、ここ別府です。
- 昔の別府には、熱い温泉や噴気があちこちから噴き出し、植物も育ちにくい荒れた土地が広がっていました。
- 赤い池、青い池、白い池、熱い泥の池など、普通では見られない景色もたくさんありました。
- 昔の人々は、その場所を「地獄」と呼びました。
- 熱い蒸気が立ち上る荒々しい景色が、仏教で描かれる地獄の世界によく似ていたからです。
- しかし、20世紀の初め、別府に一人のアイデアマンが現れました。
- その人が油屋熊八です。
- 彼は、人々が怖がって近づかなかった「地獄」を、「世界でも珍しい観光地」に変えようと考えました。
- 赤い池、青い池、間欠泉、熱泥などは、世界でもあまり見られません。
- こうして「地獄めぐり」は大人気となり、別府は日本を代表する温泉観光地になりました。
- 油屋熊八は、女性バスガイドを乗せた観光バスも始めたため、「別府観光の父」と呼ばれています。
- さらに、
- 「生きているうちに地獄へ行けば、死んでから本当の地獄へ行かなくてすむ。」
- というユーモアのある宣伝文句も、人々の人気を集めました。
- だから今では、「地獄」は怖い場所ではなく、別府を代表する観光名所になっているのです。
阿蘇のカルデラがどうやってできた?
- 九州は火山活動がとても活発な地域です。そのため、九州には火山がつくり出したさまざまな不思議な景色があります。その代表的な場所の一つが、ここ阿蘇です。
- この地形は、真ん中に山があり、その周りを山々がぐるりと囲んでいます。フライパンの真ん中に茶碗を伏せたような形を想像してください。(写真を見せる)このような地形を「カルデラ」と呼びます。カルデラはポルトガル語で「大きな鍋」という意味です。
- 約6万年前、この地域で巨大な火山噴火が起こりました。大量のマグマが噴き出し、大きな火山と広大な火砕流台地をつくりました。
- やがて噴火が終わると、地下のマグマだまりが空になり、大きな空洞ができました。
- その空洞を支えきれなくなった地面全体が一気に陥没しました。その陥没した縁が、現在見えている外輪山です。
- その後、カルデラの中央で再び火山活動が始まり、新しい山々ができました。現在も活動している中岳も、その一つです。
- このカルデラは東西約18km、南北約25km、面積約350平方キロメートルあります。その中には約5万人が暮らしており、世界でも珍しい「人が生活する巨大カルデラ」となっています。
博多ラーメンの特徴
- 日本料理の中でも、ラーメンは世界的に人気があります。もともとは中国の麺料理で、19世紀に横浜中華街へ伝わりました。その後、20世紀初めに東京で日本人向けにアレンジされ、日本のラーメン文化が始まりました。
- その後、日本全国へ広まり、それぞれの地域で独自の発展を遂げました。
- 福岡、別名博多もその一つです。博多は東京、札幌と並ぶ、日本三大ラーメンの町の一つとして知られています。では、その特徴をご紹介します。
- 特徴その1:スープが白く濁っています。豚骨を長時間煮込んで作る「豚骨スープ」です。”Tonkotsu” という言葉は、今では世界中のラーメンファンにも知られるようになっています。
- 特徴その2:麺がとても細いことです。本当の理由は、豚骨ラーメンによく合い、短時間でゆでられるからですが、福岡では、福岡の人はせっかちだから。」というジョークもよく言われます。
- 特徴その3:麺の硬さを選べます。「やわ」「普通」「カタ」など、お好みのゆで加減を注文できます。ほとんどのお店で必ず聞かれます。
- 特徴その4:麺を食べ終わってもスープが残ったら、麺だけ追加注文できます。これを「替え玉」と呼びます。
- 特徴その5:トッピングは比較的シンプルです。基本はチャーシュー、青ねぎ、きくらげです。店によっては、ゆで卵やもやしが加わります。
- 特徴その6:テーブルには紅しょうが、すりごま、辛子高菜、おろしニンニクなどが置かれていて、自由に加えて、自分好みの味にできます。
- 福岡市には約370軒のラーメン店があります。その中には海外へ進出した店も多く、一蘭と一風堂は、日本だけでなく海外でも非常に有名です。
- 最後に面白いことがあります。福岡の人に「一番好きなラーメン屋はどこ?」と聞くと、ほとんど全員が違う店の名前を答えます。それだけラーメンは、福岡の人たちの生活に深く根付いた文化なのです。
博多と福岡
- 福岡市は、大まかに言うと、福岡地区と博多地区の二つに分けて呼ばれます。市の中心を北へ流れる那珂川を境に、西側が福岡地区、東側が博多地区です。
- 新幹線やJRの中心駅は博多地区にあるので、「博多駅」と呼ばれています。一方、「福岡駅」もありますが、こちらは私鉄・西鉄の駅で、福岡地区にあります。
- 実は、本来の「博多」とは、昔から貿易港として栄えた、ごく狭い港町だけを指します。
- 博多は古くから朝鮮半島や中国に近く、国際貿易で栄え、多くの豪商を生んだ商人の町でした。現在も博多祇園山笠は、その商人文化を伝える祭りです。
- 一方、17世紀になると、福岡藩主・黒田長政が福岡城を築き、その周囲に城下町を造りました。その町が「福岡」です。つまり、博多は商人の町。福岡は侍の町。この二つが隣り合って発展しました。
- 19世紀に市制が始まると、この二つの町は一つの市になることになりました。その時、市の名前を「福岡」にするか「博多」にするかで大論争になりました。結局、市議会の投票で、わずか一票差で「福岡市」に決まりました。
- しかし、「博多」という名前は今でもとても人気があります。福岡を指す時に「博多」がよく使われます。一番の例は、博多ラーメンです。福岡市のラーメンを指します。さらに、実は、博多駅は昔の博多地区の外にあります。それでも、「博多」の名前が使われています。
- さらに面白いことがあります。福岡市出身の人でも、どちらの出身ですか?」と聞かれると、「博多です。」と答える人がたくさんいます。福岡県出身の人まで、「博多出身」と言うこともあります。それほど「博多」という名前は全国的によく知られているのです。
熊本城の凄さ
- 熊本城は、日本三名城の一つによく数えられる城です。加藤清正が1601年から約7年をかけて築きました。黒塗りの天守閣は、千鳥破風や唐破風を用い、美しく勇壮な姿を見せています。
- 築城の名手といわれた加藤清正は、この城を難攻不落にするため、さまざまな工夫を凝らしました。
- まずは石垣です。下部は緩やかで、上に行くほど垂直になるよう設計されています。「武者返し」と呼ばれ、身軽な忍者でも登れないほど急な造りになっています。
- 天守閣や各櫓の階段は、一段ごとに高さや奥行きが違います。敵が攻め込んできた時に、歩くリズムを乱し、侵入を遅らせるためです。
- 籠城戦に備え、天守閣の畳には乾燥した里芋の茎が編み込まれ、非常食として利用できるようになっていました。さらに、壁には干瓢や小豆が塗り込まれていたとも伝えられています。
- 城内には約120本もの井戸が掘られています。これも長期戦に備えるためでした。また、イチョウの木も多く植えられました。食料として利用できるだけでなく、防火にも役立つためです。そのため、熊本城は「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも呼ばれています。
- 実際、この城は19世紀の西南戦争で激しい戦場となりましたが、城は最後まで落ちませんでした。城を攻略できなかった薩摩軍の西郷隆盛は、おいどんは官軍に負けたのではなか。清正公に負けたとたい。」と言ったと伝えられています。
- 2016年、熊本は大地震に襲われました。熊本城の天守閣や石垣も大きな被害を受けました。しかし、多くの人々の努力による復旧工事が進められ、2021年には天守閣が完全に復旧しました。現在では、熊本復興のシンボルとなっています。
- しかし、宇土櫓の解体・復旧や、崩れた石垣の積み直しなど、大規模な工事は今も続いています。熊本城全体の完全復旧は2052年頃になるといわれています。
宗教観の違い
- 海外のお客さんから、「あなたは何教徒ですか」とよく聞かれます。しかし、日本人にとって、この質問に答えるのは意外に難しいのです。
- 「無宗教です」と言いたいのですが、実際には神社へ初詣に行き、お寺でお墓参りもします。ですから、それも少し違います。
- この難しさは、日本と欧米では「宗教」という言葉の意味が少し違うからです。
- 欧米では、宗教とは「特定の神を信じ、その教えを人生の基準とするもの」と考えられることが多く、普通は自分の宗教を一つ持っています。
- 一方、日本では、宗教とは必ずしも一つの教えを信じることではありません。神や仏、祖先や自然に敬意を払い、人生の節目で祈り、昔からの行事を大切にすることでもあります。
- 私なりに簡単に言えば、欧米では宗教は**「生きる指針」、日本では宗教は「生きる作法」**です。
- だから日本人の生活には、神道や仏教の習慣が自然に溶け込んでいます。
- さらに、儒教や道教の影響も受けています。最近ではキリスト教の要素も取り入れています。例えば、結婚式はキリスト教式、ハロウィーンもイベントとして楽しみます。
- ですから、最初の質問に答えるなら、私はこう説明しています。“In the West, religion is often about believing in one faith. In Japan, it’s more about respecting many traditions.”
折り紙、なぜここに?
- 折り紙がたくさんぶら下がっているのが見えますね。あれは鶴です。さて、一束に何羽あるかご存じですか。千羽です。
- では、なぜ平和公園(原爆資料館)に千羽鶴が飾られているのかをご説明します。
- 日本では古くから、鶴は「千年生きる」といわれる縁起の良い鳥でした。「千」という数字と縁起の良さが結び付いて、千羽鶴は長寿や永遠の命を願う象徴になりました。特に、病気の回復を願って、入院している人に千羽鶴を贈る習慣があります。
- また、千羽もの鶴を折るには大変な時間と努力が必要です。そのため、一羽一羽に真剣な願いを込めるという意味もあります。
- 広島で被爆し、白血病で入院していた少女に、佐々木貞子さんがいました。彼女は千羽鶴の力を信じて折り続けましたが、残念ながら亡くなってしまいました。
- 彼女の死を悼み、その思いを無駄にしないために、同級生たちが募金活動を行い、「原爆の子の像」を建てました。
- 像の完成とともに、貞子さんと千羽鶴の物語は世界中に広まりました。そして折り鶴は、「平和のシンボル」になりました。つまり、千羽鶴は、長寿を願うものから、病気平癒を願うものへ、そして世界平和を願うものへと意味を広げていったのです。
- 現在では、平和学習の一環として、多くの学校が折り鶴を作ってここへ持ってきます。束に付いている札を見ると、学校名や地域が書かれています。長崎や広島は、日本の平和学習で最も重要な場所の一つなのです。
- ちなみに、折り紙は日本の伝統的な子どもの遊びとして知られています。鶴は最も有名な折り紙の一つで、多くの日本人が一度は折ったことがあります。ただ、初心者向けではなく、少し難しい作品です。
天岩戸伝説
- 高天原と呼ばれる天国は太陽の女神、天照大神に平和に統治されていました。
- 彼女には、素戔嗚尊という弟がいました。彼はそこに現れて、乱暴をはたらきました。
- 止めるように言いますが、聞き分けません。それに、怒り天照大神はがまんできなくなりました。
- 洞穴に閉じこもることにして、岩戸をピッタリと閉めました。
- 彼女は出てこないし、岩戸は外から開けられません
- 太陽の女神が隠れているので、世界から日光が消えました。あらゆる悪いことが怒り、大混乱に陥りました。
- この状況を解決するために、神全部が話し合いに集まりました。いい考えが浮かびました。岩戸の外で大宴会をすることです。
- 始まる前に、一番力持ちの神、天手力男命が岩戸の横に控えました。すこしでも開くと、掴んで開けるつもりでした
- それに、舞踏の女神、天宇受売命が現れて、神全部を楽しませました。
- 神は皆で大声を上げて、天照大神に楽しいことをやっていると伝えました。
- 天照大神は外で何があっているのだろうと思い、岩戸を空けて、覗くことにしました。
- 岩戸が少し開くと、神は隙間に鏡を当てました。それには美しい顔が映りました。それは天照大神の顔です。しかし、違う女性で、同じ位に美しいと思いました。
- それに、ショックで動きが止まりました。その瞬間、力持ちの天手力男命は岩戸をつかみ、開けました。
- 彼は天照大神を岩穴から引きずり出しました。
- すると、世界に光がもどりました。
仏教の諸要素
- 地蔵の前掛け:地蔵の前掛けは、仏教の正式な決まりではなく、日本で生まれた信仰習慣です。地蔵は子どもや旅人を守る仏とされ、亡くなった子どもの冥福を願う親が、わが子に衣服を着せる気持ちで前掛けを供えるようになりました。また、赤色には魔除けや病気除けの力があると信じられ、赤い前掛けが多く見られます。
- 浄土真宗の西と東:浄土真宗は1602年、豊臣秀吉の死後、徳川家康が教団の勢力を分散させるため、本願寺を二つに分けたことから、西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)が生まれました。教えの基本はどちらも親鸞の教えを受け継いでおり、大きな違いはありません。現在も、主な違いは寺院の組織や運営であり、一般の信者にとって信仰内容にほとんど差はないとされています。
- 煩悩の数108:煩悩が108あるという考え方には諸説ありますが、最もよく知られるのは、人間には六つの感覚(目・耳・鼻・舌・身・意)があり、それぞれに「好き・嫌い・どちらでもない」の三つの反応が生じます。これを過去・現在・未来の三世に当てはめ、さらに「清らか・汚れた」の二つに分けると、6×3×3×2=108になります。大晦日に除夜の鐘を108回撞くのは、これらの煩悩を払い、新しい年を清らかな心で迎えるという願いが込められています
- 八大地獄:八大地獄とは、仏教で悪業の重さに応じて堕ちるとされる八つの主要な地獄です。罪が重くなるほど下層へ進み、苦しみも激しくなります。順に、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄です。最下層の阿鼻地獄は、親殺しや仏を傷つけるなど最も重い罪を犯した者が堕ちる地獄とされます。これらは人々に悪を戒め、善い行いを勧めるための教えとして説かれました。
- 六道:六道とは、仏教で生き物が生前の行い(業)によって生まれ変わる六つの世界です。上から天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道に分けられます。天道は幸福な世界ですが永遠ではなく、人間道は悟りを開く最もよい世界とされます。修羅道は争い、畜生道は弱肉強食、餓鬼道は飢えと渇き、地獄道は苦しみの世界です。仏教では、この六道輪廻から解放されることを目指します。
- 三尊形式:仏像は一体だけでなく、中央に本尊、左右に脇侍(わきじ)を配した「三尊形式」がよく見られます。代表的な組み合わせは次のとおりです。
- 釈迦三尊:中央に釈迦如来、左右に文殊菩薩(知恵)と普賢菩薩(慈悲・実践)。
- 阿弥陀三尊:中央に阿弥陀如来、左右に観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(知恵)。
- 薬師三尊:中央に薬師如来、左右に日光菩薩と月光菩薩。
- 大日三尊:中央に大日如来、左右に金剛波羅蜜菩薩と金剛薩埵など
- 坊主の剃髪:僧侶が剃髪するのは、出家して俗世への執着を捨てる決意を示すためです。髪は古くから美しさや身分、個性の象徴と考えられていたため、それを剃ることで名誉や欲望への執着を断ち、仏道に専念することを表しました。また、身だしなみを簡素にし、修行に集中する実際的な意味もあります。ただし、現在では宗派によって異なり、必ずしもすべての僧侶が剃髪しているわけではありません。
- 千手観音の手:千手観音の「千本の手」は、あらゆる人々を救う限りない慈悲を表しています。ただし、実際の仏像は千本ではなく、42本や40本の腕で表されることが一般的です。これは1本の手が25の世界を救う力を持つと考えられ、40本×25で「千」の働きを象徴しています(中央の合掌する2本は数えない考え方)。また、多くの手のひらには目が描かれ、「よく見て、よく救う」という観音菩薩の慈悲を表しています。
- 四天王:四天王とは、仏教を守る四人の守護神で、寺院では本尊の四方を守るように安置されます。東を守る持国天、南の増長天、西の広目天、北の**多聞天(毘沙門天)**の四尊です。それぞれ国土を守り、悪鬼や災いを退ける役割を担います。怒った表情で武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿は、仏法が悪に打ち勝つ力を象徴しています。日本では多聞天は七福神の毘沙門天としても広く親しまれています。
- スケールの大きな数字:
- 弥勒菩薩は、釈迦の入滅から56億7,000万年後にこの世へ現れ、人々を救済するとされています。
- 三千大千世界がある。一人の仏が教化する世界は、10億(1,000×1,000×1,000)の世界から成るとされます。
- 劫(こう)という単位がある。一辺約16kmの巨大な岩を100年に一度天女の羽衣でなで、その岩がすり減るまでを一劫とたとえるほどの長大な時間です。
車の軽
- 窓の外を見てください。黄色いナンバープレートが見えますね。日本では、およそ車の40パーセントが黄色いナンバープレートです。
- あれは、「軽自動車」と呼ばれる小型車です。「軽」は「軽い」という意味です。排気量は660cc以下と法律で決められています。
- 小さな車は、道路が狭い日本ではとても運転しやすく、大変人気があります。当然、車体が小さいので価格も比較的安くなります。
- さらに、自動車税が安く、燃費が良いというメリットもあります。
- 最近では、軽トラックがアメリカの農村部などでも人気を集めていると聞いています。
- ナンバープレートには他にも緑色と黒色があります。どちらも商用車で、緑は普通車、黒は軽自動車です。
- 余談ですが、日本ではナンバーの数字を希望して選ぶこともできます。人気なのは「2525」や「1122」です。これは語呂合わせで、「2525」は「ニコニコ(笑顔)」、「1122」は「いい夫婦」を意味します。誕生日や、「8888」のような同じ数字、「8118」のような左右対称の数字も人気があります。
- ナンバープレートを見ながら、「なぜこの数字を選んだのだろう」と想像するのも楽しいものです。単調なドライブの良い気晴らしになります。
原爆資料館で、見るべき4つ、私の意見
- ここから原爆資料館に入ります。
- 館内では静かにしなければなりません。特に私は声が大きいので、ガイドをすることができません。実は、ここで何度も注意されたことがあります。
- でも大丈夫です。展示には英語の説明があります。それから、私がぜひ見てほしい展示を、あらかじめお伝えしておきます。全部で四つあります。
- 一つ目は、「壁時計」です。これは、この博物館を象徴する展示の一つです。
- 二つ目は、「ファットマン」です。(頬とお腹を膨らませるジェスチャー)
- 何のことだろうと思うかもしれませんが、中へ入れば分かります。
- 三つ目は、白黒写真の「壁の影」です。
- そして最後は、私が一番見ていただきたい展示です。「ゆがんだ弁当箱」です。被爆した女子学生のお弁当箱です。私は、この展示が一番胸を打たれます。
- もう一度言います。「壁時計」「ファットマン」「壁の影」「ゆがんだ弁当箱」の四つです。館内は写真撮影もできます。それでは、チケットをお配りしますので、中へ入りましょう。
壇ノ浦の合戦、和布刈公園で
- 皆さま、こちらが壇の浦(Dan-no-ura)です。地図でいうと、当時の日本の中心は京都で、壇ノ浦は、その西にあります。今は平和な海ですが、800年以上前、この海は赤旗と白旗が入り乱れる決戦の舞台だったのです。
- ここは1185年、日本の歴史を大きく変えた壇の浦の合戦の舞台です。平氏(Taira Clan)と源氏(Minamoto Clan)が、この関門海峡で最後の決戦を行いました。
- この戦いでは、平氏は赤旗、源氏は白旗を掲げて戦いました。
- 今日でも日本では、赤と白は対抗戦の伝統的な色です。
- 赤と白の戦いでは、中世のイギリスのバラ戦争が有名です
- 最初は潮の流れをよく知る平家が優勢でした。しかし、激しい潮流が変わると戦況も逆転し、源氏が有利になります。
- 源氏の大将、源義経は船から船へ跳び乗り、大活躍しました。さらに平家側の裏切りもあり、勝敗は決しました。
- 追い詰められた平家の人々は次々と海へ身を投げ、幼い安徳天皇も祖母に抱かれて入水したと伝えられています。こうして平家は滅び、源氏の時代、すなわち武士の時代が本格的に始まりました。
- この戦いは、日本人にとって単なる戦争ではなく、栄華は永遠ではないという「平家物語」の精神を象徴する出来事として今も語り継がれています。
五重塔
- あの五階建ての塔は五重塔です。お釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めるために建てられた仏教の塔です。
- その起源は、古代インドの「ストゥーパ」という半球状のお墓にあります。そこには、お釈迦様の遺骨(仏舎利)が納められていました。
- 古代インドでは、身分の高い人を強い日差しから守るため、日傘を差しかける習慣がありました。お釈迦様を深く敬う人々は、「お釈迦様が暑くないように」と、お墓の上に傘のような飾りを付けたのです。
- その後、仏教が中国へ伝わると、中国の楼閣建築と結びついて、多層の塔になりました。そして日本に伝わり、五重塔へと発展しました。
- この「五」という数字は、仏教の宇宙観を表しています。下から順に、「地・水・火・風・空」という、万物を構成する五つの要素を意味しています。
- 塔の中はほとんど空洞で、人が入るための建物ではありません。塔そのものが信仰の対象なのです。
- その構造も非常に特徴的です。日本は地震が多いため、中央に「心柱(しんばしら)」という柱を設け、揺れを吸収する構造になっています。奈良の法隆寺の五重塔は約1300年前に建てられましたが、一度も倒れたことがありません。この技術は、東京スカイツリーにも応用されています。
鬼の洗濯板
- これは日南海岸でよく見られる、波状の奇岩群です。
- 遠くから眺める洗濯板のように見えることから、「鬼の洗濯板」と呼ばれています。鬼とは日本の伝説に登場する巨大な怪物で、洗濯板とは、洗濯機が発明される前に洗濯で使われていた板のことです。
- 巨大 な鬼が、この大きな洗濯板で洗濯している姿を想像してみてください。
- 約700万年前、この場所は海の底でした。そこに砂と泥が交互に積み重なり、地層ができました。
- その後、その地層が地殻変動によって斜めに持ち上がり、海の上に姿を現しました。
- 波に洗われ続けるうちに、硬い砂岩は残り、柔らかい泥岩だけが削られていきました。
- その結果、このような凸凹の縞模様が何本も並ぶ、珍しい地形ができたのです。
明礬温泉の湯の花
- 明礬温泉では、「湯の花」が作られています。湯の花は、日本の伝統的な天然入浴剤です。温泉の蒸気と青粘土を「湯の花小屋」という特別な小屋の中で反応させ、結晶を作ります。
- この製法は約290年前の江戸時代から受け継がれており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
- 湯の花小屋では、まず栗石で床を作り、その上にこの地域特有の青粘土を敷き詰めます。さらに、わら葺きの三角屋根をかぶせ、温泉の蒸気が小屋全体に均等に行き渡るよう工夫されています。
- 地面から噴き出す硫黄を含んだ温泉の蒸気が粘土を通り抜けると、化学反応によって白い針のような湯の花の結晶が表面にできます。
- 約30〜40日間、職人が温度や蒸気の量を細かく調整しながら、ゆっくりと結晶を育てます。
- 床一面に育った白い結晶を丁寧にかき集め、不純物を取り除いて製品になります。
- この湯の花をお風呂に入れると、自宅でも明礬温泉の香りや温泉気分を楽しむことができます。
有田焼
- 有田焼とは、佐賀県西部の有田町と、その周辺地域で作られている磁器のことです。
- 透き通るような白い磁肌と、染付(藍色)や赤絵(色鮮やかな絵付け)の美しいデザインが特徴です。
- 約1,300度という高温で焼かれるため、とても硬く丈夫です。薄く作られていても、日常使いに十分な耐久性があります。
- 17世紀初め、朝鮮人陶工・李参平が磁器の原料となる陶石を発見し、日本で初めて磁器を作りました。
- 江戸時代、有田焼は近くの伊万里港から船で運ばれていたため、海外では「Imari(伊万里)」という名前で知られるようになりました。ヨーロッパの王侯貴族を魅了し、日本を代表する磁器として世界的に有名になりました。
- 代表的な様式は三つあります。
- 古伊万里様式:藍色・赤・金を使った豪華で力強いデザイン。
- 柿右衛門様式:乳白色の地に、余白を生かした上品で繊細な絵付け。
- 鍋島様式:将軍家への献上品として作られた、非常に格調高く精緻なデザイン。
- 有田焼は美術工芸品として有名ですが、普段使いの食器も数多く作られており、多くの人に親しまれています。
日本酒の製造過程
- まず、原料となる酒米を精米します。米の表面にある雑味の原因となる部分を削り取り、中心のでんぷん質を残します。
- 精米した米を洗い、水を吸わせた後、蒸し上げます。
- 次に、でんぷんを糖に変えるための麹を作ります。蒸した米の一部に麹菌を付け、約二日かけて麹を育てます。麹菌が作る酵素が、でんぷんを糖に変えます。
- さらに、蒸した米の一部に麹、水、酵母を加えて、酵母を大量に増やします。これが発酵のもとになる「酒母」です。酵母は糖をアルコールへ変えます。
- この酒母に、さらに蒸した米、麹、水を加えて発酵させると、「醪(もろみ)」になります。約3週間から1か月かけて発酵させます。この間、麹がでんぷんを糖に変え、その糖を酵母がアルコールに変えるという、二つの働きが同時に進みます。
- 発酵が終わった醪を強く搾り、酒と酒粕に分けます。その後、不純物を取り除き、加熱殺菌を行い、熟成させます。
- 最後に瓶詰めされ、日本酒として店頭に並びます。
- 日本酒は、米・水・麹菌・酵母というシンプルな材料から、微生物の働きを利用して造られる、世界でも非常にユニークな醸造酒なのです。
神道の諸要素
- 鳥居:鳥居とは、人間が住む世界(俗世)と神様がいる神聖な世界(神域)を分ける境界を示す門です。鳥居(とりい)とは、人間が住む世界(俗世)と神様がいる神聖な世界(神域)を分ける境界を示す門です。朱色の鳥居が多いです。赤色には魔除けや災い防止の意味があります(木材の腐食を防ぐ丹(水銀の化合物)が使われた歴史もあります)。
- 狛犬:狛犬(こまいぬ)は、参道や社殿の前に一対で置かれる想像上の霊獣です。狛犬(こまいぬ)は、参道や社殿の前に一対で置かれる想像上の霊獣です。古代オリエントやインドのライオン(獅子)信仰が中国や朝鮮半島(高麗)を経て日本に伝わり、「高麗犬(こまいぬ)」と呼ばれるようになりました
- 注連縄:この縄は神様が宿る神聖な「神域」と、私たちが暮らす「俗世界」を分ける結界の役割を持ち、不浄なものが入り込むのを防ぐ印とされています。青刈りした稲の藁(新藁)を左方向にねじった「左綯い(ひだりない)」で作られます。
- 紙垂(しで):紙垂とは、その場が神聖で清らかな領域であることを示し、邪悪なものの侵入を防ぐ結界の役割を持ちます。ジグザグとした形は稲妻を象徴し、古来より悪霊や穢れを祓う力があると信じられてきました。
- 手水舎:手水舎(ちょうずや・てみずや)とは、神社や寺院で参拝する前に、手と口を洗って心身の汚れを清める場所です。昔の人々が川や海で身を清めた「禊(みそぎ)」の簡易的な形であり、神聖な場所へ入るための大切な作法を行う施設です。
- お守り:神社のお守りとは、神様のお札を小さくして袋に入れたものです。常に身につけて神様のご加護を受け、災いから身を免れ、願いを叶えるための縁起物です。健康、学業、交通安全、縁結びなど、願いに合うものを選びます。
- おみくじ:おみくじには一般的に吉凶があり、その種類や順番は神社によってさまざまですが、一例として「大吉→吉→中吉→小吉→末吉→凶」といった順番があります。
- 拝殿:参道を進んだ先で、賽銭箱や鈴がある一番手前の場所がこれにあたります。神さまが鎮座する「本殿」の手前に建てられています。
- 絵馬:絵馬とは、願い事を書いて神社やお寺に奉納する木の板です。もともとは生きた馬を神様に献上していた風習が由来で、馬の絵が描かれていることが名前とデザインの始まりです。
- 神主と巫女:神主(かんぬし)は神様へ祈りを捧げる正式な「神職(しんしょく)」であり、祭典の主宰や祝詞(のりと)の奏上を行います。一方、巫女(みこ)は神職を補佐する役割で、神楽(かぐら)の舞や社務(お守りの授与や受付など)を行います。
- 本地垂迹説:本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、日本の神々は仏教の仏(如来や菩薩など)が姿を変えて現れたものとする、平安時代以降に広まった神仏習合の思想です。仏が「本体(本地)」であり、救済のために神として現れること(垂迹)を意味します。
- 神仏分離と廃仏毀釈:明治政府は1868年、天皇を中心とする国づくりを目指し、神社と寺を分ける神仏分離令を出しました。これに伴い、全国で仏教の教えや道具を排斥する廃仏毀釈が起き、多くの寺院や仏像が壊される混乱が生じました。
知覧特攻平和会館
- 特別攻撃隊、英語でよく「Kamikaze」と呼ばれる部隊は、第二次世界大戦末期、爆弾を搭載した航空機で敵の艦船に体当たりする攻撃を行いました。この知覧には、その出撃基地の一つがありました。
- 「神風」という言葉には、日本を危機から救う「奇跡の風」という意味合いがあります。
- 13世紀、日本はモンゴル軍を中心とする大軍に二度攻められました。その際、暴風によって敵の船団が大きな被害を受け、日本は侵攻を免れました。後世、この風は「神が日本を救うために吹かせた風」と考えられ、「神風」と呼ばれるようになりました。
- 第二次世界大戦末期、日本は圧倒的に不利な状況にあり、アメリカ軍は沖縄まで迫っていました。その中で特攻作戦が行われ、「神風」という名前に、かつてのような奇跡的な逆転への願いが重ねられました。ここ知覧からも、多くの若者が出撃しました。
- 隊員の多くは17歳から20代前半の若者でした。知覧基地から出撃して亡くなった隊員は439名です。
- この平和会館には、隊員たちの写真、家族に宛てた手紙、遺書などが展示されています。
- また、特攻に関係した航空機や、さまざまな戦争資料も保存・展示されています。
- この平和会館は、彼らを戦争の英雄として称えるためだけの場所ではありません。戦争の悲惨さと命の尊さを後世に伝え、このような悲劇を二度と繰り返さず、世界の恒久平和を願うための場所なのです。
侍とは?
- まず、現代の日本に侍はいません。 観光地で侍の格好をしている人たちを見かけるかもしれませんが、彼らはただの役者さんや一般の人です。
- もともと侍は、貴族に仕える武力を担う一族でした。しかし中世以降、彼ら自身が日本を支配するようになります。天皇は象徴的な存在として存続し、実際の政治は侍階級が取り仕切るという体制が、19世紀半ばまで続きました。
- 侍は主君に仕える身分であり、主君のためなら命を捧げる覚悟を持っていました。主君を守るために日々武道の修練に励み、何よりも「名誉」を重んじたのです。
- こうした侍の生き方や行動規範は「武士道」と呼ばれます。明治時代に新渡戸稲造が著した『武士道』という本は、世界中で読まれるベストセラーとなりました。
- この本によると、武士道には根幹となる7つの美徳があります。「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」です。
- また別の有名な書物には、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と書かれています。これは「毎日を人生最後の日と思って真剣に生きよ」という意味です。いざという時には、切腹してでも自ら責任を取る覚悟がありました。
- しかし19世紀半ば、天皇を中心とした新政府が発足すると、侍に関することはすべて廃止されました。日本の近代化・西洋化を進めるうえで、侍という存在がそぐわなくなったためです。
- 「侍という身分は廃止する。刀の所持も禁止、城も壊す。軍隊や警察という新しい組織を作るので、これからは全員『平民』だ」という方針をとったのです。
- こうして侍という存在は消滅しました。しかし、その精神は今も日本人に受け継がれています。先ほど紹介した7つの美徳、私たち日本人に感じられませんか? 野球の日本代表チームを「サムライジャパン」と呼ぶのも、まさに彼らがその武士道精神を体現して戦ってくれるからです。
天皇とは?
- 天皇とは、日本の皇室の長です。この一族の最大の特徴は、伝統的には2000年以上、一つの皇室が続いているとされていることです。
- 長い歴史の途中で、実際の政治を行う力は武士に移りました。しかし、武士が政治を行っていた時代でも、天皇は日本の最高権威として存在し続けました。
- 19世紀中期に武士の政権が終わり、再び天皇を中心とする新しい政府が作られました。
- 古代から、天皇家はその祖先を日本神話の神々につなげてきました。そのため、天皇は政治的な存在であるだけでなく、神道の最も重要な祭祀を行う立場でもあります。現在でも天皇は多くの伝統的な儀式を行っています。また、いくつかの神社では、天皇家の紋章である菊の御紋を見ることができます。
- 19世紀に成立した政府は、天皇の神聖な地位を強調し、神道を国家と強く結びつけました。第二次世界大戦中も、天皇は国家の中心的な存在でした。
- しかし、戦後に作られた現在の憲法は、天皇の地位を大きく変えました。天皇を「日本国と日本国民統合の象徴」とし、政治的な権力を持たない存在としました。
- 現在の天皇は、外国の国賓を迎えたり、全国各地の行事に出席したりするなど、さまざまな公的活動を行っています。
- 現在でも皇室は多くの国民の関心を集めています。特に、将来誰が皇位を継承できるのかについて議論があります。現在の法律では、皇位を継承できるのは皇統に属する男系の男子だけです。一方、世論調査では女性天皇を認めてもよいという意見も多く、現在の天皇の長女、愛子内親王を念頭に置いた議論もしばしば行われています。
柳川
- 福岡県南西部にある柳川市は、人口約6万人の町です。福岡を代表する人気観光地の一つです。
- 町中に張り巡らされた水路と「川下り」で有名な、情緒あふれる水の都です。かつては柳川藩約11万石の城下町で、水路の一部は城の堀としても使われました。現在、天守閣などの城の建物は残っていませんが、川下りでは城の堀だった水路を中心に巡ります。
- もともとこの地域は湿地帯で、人々は掘割を作り、そこに水をためて、農業用水、防火用水、生活用水などに利用してきました。その総延長は約930kmにも及びます。
- 掘割沿いには柳の木が植えられており、川下りでは柳と水路が作り出す美しい風景を楽しむことができます。
- 川下りでは、「どんこ舟」という小舟に乗ります。船頭さんの巧みな竿さばきを見たり、話や歌を聞いたりしながら、ゆっくりと水路を巡ります。
- 川下りの途中で、とても良い匂いがしてくることがあります。鰻を焼く匂いです。柳川では、鰻をタレをかけたご飯と一緒に蒸籠で蒸す「鰻のせいろ蒸し」が伝統的な名物料理で、非常に人気があります。ぜひ食べてみてください。
- 柳川は、20世紀前半に活躍した有名な詩人・童謡作家、北原白秋の生誕地でもあります。彼が作詞した歌の中には、現在でも歌い継がれているものがあります。川下りでは、船頭さんが白秋の歌を歌ってくれることもあります。
- また、16〜17世紀に活躍した立花宗茂は、柳川を代表する武将です。「天下無双」と称された名将として知られ、現在でもこの土地の歴史的英雄です。柳川で侍の絵を見かけたら、立花宗茂かもしれません。また、妻の誾千代も勇敢な女性として知られ、人気があります。
- それでは、柳川の美しい水辺の風景と、昔の城下町の雰囲気をお楽しみください。
博多の屋台
- 屋台は、江戸時代から第二次世界大戦の前までは、日本中どこでも見られる、とても一般的な飲食店でした。
- しかし、高度経済成長の時代になると、道路整備や交通事情、衛生基準の強化などによって、多くの都市から姿を消していきました。
- 福岡・博多でも屋台は絶滅寸前になりました。しかし21世紀の初め、福岡市は屋台を貴重な観光資源として守ることを決めました。2013年には「福岡市屋台基本条例」を制定し、新しい屋台の営業者も募集するようになりました。
- その結果、屋台は福岡を代表する観光名所になりました。現在、福岡市には約100軒の屋台があり、中洲、天神、長浜の三つのエリアに集まっています。
- 定番は豚骨ラーメン、おでん、焼き鳥ですが、明太子の天ぷら、一口餃子、さらにはフレンチや多国籍料理まで楽しめます。ただし、生ものは衛生上の理由から提供できません。
- 一つ注意があります。屋台にはトイレがありません。事前に済ませておくか、近くのトイレの場所を店主に聞いてください。
- 博多屋台の魅力は料理だけではありません。知らない人同士でも自然に話が始まり、店主も会話に加わり、みんなで楽しい時間を過ごすことです。そのフレンドリーな雰囲気こそ、博多屋台の一番の魅力です。
- 最後に、私の個人的な思い出です。私は博多生まれですが、若い頃の屋台は「安くて、いつでも座れる店」でした。だから、お金のない若い人たちがよく利用していました。ところが今では人気観光地になり、値段も昔ほど安くなく、満席のことも珍しくありません。「時代は変わったなあ」と感じています。
東長寺の地獄極楽巡り
- 東長寺は806年、弘法大師・空海によって開かれた真言宗の寺院です。ここには福岡大仏が安置されており、木造坐像としては日本最大級です。
- この大仏は1988年から4年をかけて造られました。高さ10.8メートル、重さ約30トンあります。光背には約5,000体もの小さな仏像が並んでいます。
- 高さが10.8メートルなのには理由があります。仏教では、人間には108の煩悩があると考えられており、その数字にちなんでいます。
- 大仏の台座の中には、「地獄・極楽めぐり」と呼ばれる回廊があります。
- 前半では地獄の世界が絵で紹介され、後半は真っ暗な通路になっています。
- 閻魔大王、賽の河原、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、焦熱地獄、刀葉地獄、血の池地獄などが描かれ、最後には極楽の世界が現れます。
- 後半は真っ暗闇の中を歩きます。途中には「極楽の輪」があり、それに触れると極楽へ導かれるといわれています。
- この暗闇は、仏の教えのない苦しみの世界を象徴しています。そして最後に見える光は、仏の救いを表しています。
- つまり、この回廊は、仏教における「救済」を体験できるようにつくられているのです。
桜
- 日本には多くの種類の桜がありますが、街中でよく見かける桜の多くは「ソメイヨシノ」という品種です。一般に日本人が「桜」と聞いて思い浮かべる、代表的な桜です。
- ソメイヨシノの美しさには、大きく二つの特徴があります。一つは、葉が出る前に花が咲くことです。そのため、木全体が淡いピンク色に包まれます。もう一つは、同じ地域の桜がほぼ一斉に咲き、一斉に散ることです。
- この同時性には理由があります。ソメイヨシノは種ではなく、主に接ぎ木などによって増やされてきました。そのため、基本的に同じ遺伝情報を持つクローンです。同じ地域で同じような気象条件に置かれると、ほぼ同じ時期に花を咲かせます。
- また、満開の期間が短く、やがて花びらが一斉に散っていく姿も、日本人の美意識に強く訴えます。これは、すべてのものはやがて変化し、失われていくという仏教の「無常」の感覚とも重なります。また後世には、桜の潔く散る姿が武士の死生観と結びつけて語られることもありました。
- 花見の歴史も古く、もともと春に豊作を祈る農耕行事と結びついた習慣があったといわれています。平安時代には貴族が桜を楽しむ宴を開き、江戸時代になると花見は庶民にも広がりました。その後、19世紀にソメイヨシノが生まれて全国に広まり、現在では満開の桜の下で家族や友人、同僚たちが食事やお酒を楽しむ光景が春の風物詩となっています。
- ソメイヨシノにも小さな実ができることがありますが、食用には向きません。また、日本には「桜餅」というお菓子があり、塩漬けした桜の葉で包みます。この葉には、主に香りのよい別の品種、オオシマザクラなどが使われます。
- もちろん、桜はソメイヨシノだけではありません。ヤマザクラ、シダレザクラなど多くの種類があります。特に、何百年も生きている一本の巨大な桜が、その木だけで有名な観光地になっていることもあります。
- 街中でソメイヨシノが特に目立つのは、公園、学校、そして川沿いです。公園は花見の代表的な場所です。学校では、ちょうど卒業や入学の季節に桜が咲くため、特に「入学式と桜」は日本人にとって非常に典型的な春のイメージになっています。
- 川沿いの桜には、昔の人の知恵が関係した例もあります。堤防に桜を植えることで花見客が集まり、人々が歩いて土を踏み固める効果を期待した、と伝えられる場所があります。ただし、すべての川沿いの桜がこの目的で植えられたわけではありません。
- 桜が咲く季節は、日本が最も美しく見える季節の一つです。短い期間しか見ることのできない、この美しさをぜひ楽しんでください。
日本茶
- 日本茶、烏龍茶、紅茶は、実はすべて同じチャノキ、**カメリア・シネンシス(Camellia sinensis)**の葉から作られます。大きな違いは、摘んだ葉をどの程度酸化させるかです。茶の世界ではこれを伝統的に「発酵」と呼び、日本茶は不発酵茶、烏龍茶は半発酵茶、紅茶は発酵茶に分類されます。
- 日本茶の味を作る代表的な三つの成分は、カテキン、カフェイン、テアニンです。カテキンは主に渋味、カフェインは苦味、テアニンは旨味や甘味に関係しています。
- 茶は茶園で栽培され、新芽が育つ時期に年に数回、茶摘みが行われます。その年最初に摘まれる茶を「一番茶」または「新茶」と呼びます。地域によりますが、だいたい4月下旬から5月ごろです。「八十八夜」のころに摘まれるお茶は縁起がよいとされ、一番茶は一般に香りや旨味が豊かで、渋味が比較的少ないとされています。その後、二番茶、地域によっては三番茶などが作られます。
- 摘み取った生葉は、まず蒸して酸化酵素の働きを止めます。一部の地域では蒸す代わりに釜で炒ります。その後、揉みながら形を整え、乾燥させます。これが一般的な煎茶の基本的な製造方法です。
- 一方、茶摘みの前に、茶園を約3週間ほど覆って日光を遮って作る高級茶があります。それが玉露です。日光を遮ることでカテキンの増加が抑えられ、テアニンが多く残るため、渋味が少なく、強い旨味と甘味を感じるお茶になります。
- 皆さんがよく知っている抹茶は、私たちが普段飲んでいる煎茶とは製造方法が違います。抹茶の原料となる茶も、摘む前に一定期間日光を遮ります。摘んだ葉を蒸した後、基本的に揉まずに乾燥させて「碾茶(てんちゃ)」を作り、それを石臼などで細かい粉にしたものが抹茶です。日本では伝統的に、抹茶は特に茶道で使われてきました。
- 現在、抹茶は健康的なイメージに加え、美しい緑色がSNSなどでも注目され、海外で非常に人気があります。そのため、日本でも抹茶の需要が大きく伸びています。
- 最後に、お店でよく見かける四種類のお茶を覚えておくと便利です。煎茶、ほうじ茶、玉露、抹茶です。煎茶は、日本で日常的によく飲まれる緑茶です。ほうじ茶は、茶葉を強く焙煎したもので、茶色く、香ばしい香りが特徴です。玉露は、茶摘み前に日光を遮って作る高級な緑茶で、渋味が少なく旨味が強いのが特徴です。そして抹茶は、碾茶を粉末にしたお茶で、そのまま飲むだけでなく、現在ではお菓子やアイスクリームなどにも広く使われています。
- この四種類、煎茶、ほうじ茶、玉露、抹茶を覚えて、日本茶の味の違いやショッピングを楽しんでください。
ひな飾り
- ひな飾りは、3月3日の「桃の節句(ひな祭り)」に、女の子の健やかな成長と幸せを願って飾る日本の伝統文化です。将来の幸せな結婚への願いも込められています。
- そのルーツの一つは、紙などで作った人形に自分の災いや穢れを移して川に流す「流し雛」のような厄払いの風習にあります。人形が子どもの身代わりとなって災いを引き受けてくれる、という考え方です。
- 現在では少ない段数の飾りもありますが、伝統的な七段飾りが最も豪華です。それぞれの段に何が置かれているか、上から説明しましょう。
- 1段目:内裏雛(男雛・女雛)
- 天皇・皇后を思わせる男女一対の人形で、宮中の結婚式を表しています。
- 2段目:三人官女
- 宮中に仕える三人の女官です。お酒を注ぐための道具などを持っています。
- 3段目:五人囃子
- 能楽の囃子を演奏する五人の少年です。謡(うたい)、横笛、小鼓、大鼓、太鼓を担当します。
- 4段目:随身
- 二人の護衛役で、一般に「左大臣・右大臣」と呼ばれます。向かって左側に老人の人形が置かれます。
- 5段目:仕丁
- 宮中の雑用などを担当する三人です。それぞれ怒った顔、泣いた顔、笑った顔をしているのが面白いところです。
- 6・7段目:道具類
- 箪笥、長持、重箱、御所車など、嫁入り道具や乗り物などが並べられます。
- ここで注目してほしいのが、一番上の男女の座る位置です。現在一般的な関東式では、向かって左に男雛、右に女雛を置きます。これは近代に西洋式の並び方が取り入れられた影響とされています。一方、京都などでは昔の宮中の伝統を守り、向かって右に男雛、左に女雛を置くことがあります。
- 伝統的には、ひな飾りは立春を過ぎたころから飾り始め、3月3日が終わると早めに片付けるとよいとされています。そして日本には面白い言い伝えがあります。「ひな人形をいつまでも片付けないと、娘がお嫁に行くのが遅くなる」というものです。
青の洞門
- 青の洞門は、江戸時代に人の手で掘られたトンネルです。その後、明治時代以降に大規模な改修や拡幅が行われたため、当時の原型の多くは失われましたが、一部には昔の手掘りの跡が残っています。
- 18世紀、諸国を巡っていた禅海和尚という僧侶が、ここ耶馬溪に立ち寄りました。当時、住民がこの場所を通るには、山国川沿いにそびえる競秀峰の断崖に設けられた、非常に危険な道を通らなければなりませんでした。鎖を頼りに通るような難所で、人や馬が命を落とすこともあったと伝えられています。
- 禅海和尚はその惨状を見て、人々が安全に通れるように、岩山にトンネルを掘ることを決意しました。
- ノミと槌などを使って工事を続け、他の人々の助けも借りながら、約30年をかけて、1764年に全長約342メートルの洞門を完成させたと伝えられています。
- さらに面白いのは、工事の途中から通行料を取り、その収入を工事費に充てたことです。人から4文、牛馬から8文を取ったとされ、そのため青の洞門は「日本最初の有料道路」とも言われています。
- 目の前には山国川が流れ、その横には競秀峰の断崖がそびえています。この自然の美しい景観と、人々の安全のために約30年を費やした禅海和尚の物語を思い浮かべながら、青の洞門を通ってみましょう。
石炭産業
- 日本の石炭産業は、19世紀後半、日本の近代化とともに急速に発展しました。それ以前にも石炭は使われていましたが、利用は比較的小規模でした。
- まず、蒸気船などの燃料として石炭の需要が高まり、長崎県の高島炭鉱などでは西洋式の採掘技術や機械が導入されました。
- その後、主に北海道や九州北部、特に福岡県の筑豊や三池などで炭鉱が発展し、石炭は鉄鋼、鉄道、船舶など、日本の近代化を支える巨大産業となりました。
- しかし、炭鉱での労働は過酷で危険なものでした。地下深くで働くため、落盤、ガス爆発、出水などの大きな事故もたびたび起こりました。
- 第二次世界大戦中には、石炭は重要な戦略物資となり、生産が強く求められました。この時期には、日本人労働者だけでなく、朝鮮半島や中国から連れてこられ、本人の意思に反して働かされた人々もいました。
- 戦後の復興期にも、石炭は日本経済を立て直すための重要なエネルギー源となりました。多くの労働者が炭鉱に集まり、1950年代後半から1960年代初めにかけて、国内の石炭生産は再び年間5,000万トンを超える規模になりました。
- しかし、その後「エネルギー革命」が起こり、エネルギーの主役は石炭から、より安価な輸入石油へと移っていきました。その結果、全国の炭鉱が次々と閉山し、炭鉱を中心に栄えていた町の多くも人口が減少していきました。
- 現在、日本で石炭を採掘している代表的な炭鉱として、北海道釧路市の釧路コールマインがあります。しかし、日本のエネルギーを支えたかつての巨大な国内石炭産業は、ほぼ姿を消しました。
- 現在では、各地に残る炭鉱施設や、筑豊の「ぼた山」などが、その繁栄の記憶を伝えています。また、長崎の高島・端島などの炭鉱跡や三池炭鉱の関連施設は、「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界文化遺産に登録されています。
田んぼ
- 日本の稲作では、田んぼに水を張って米を育てます。水田では、水によって雑草を抑えたり、土壌の状態を安定させたりできるため、畑作に比べて連作障害が起こりにくく、同じ土地で長年、米を作り続けることができます。夏に高温多湿となり、雨や水が豊富な日本の気候も稲作に適しています。
- 日本では昔から、田んぼの面積を「反(たん)」という単位で表してきました。昔ながらの田んぼ一枚の標準的な大きさは1反です。1反は約992平方メートル、だいたい31.5メートル四方です。テニスコート約4面、バスケットボールコート約2面ほどの広さです。
- 昔の日本では、1反の田んぼからおよそ1石(こく)の米が取れることが、一つの目安とされていました。1石は米約150kgに相当します。この「石」は、武士の時代には領地の経済力を示す重要な単位にもなりました。例えば、加賀藩は「加賀百万石」として有名です。
- 現在では、1反の田んぼから、およそ500kg前後の玄米が収穫できます。日本人一人当たりの米の年間消費量はおよそ50kgですから、単純計算すると、1反の田んぼで約10人が1年間に食べる米を作ることができます。
- 日本では、米の需要に合わせて農家が作付けを判断し、国も補助金などを通じて、主食用米から飼料用米や他の作物への転換を促すなど、米の供給を調整する政策を行っています。
- 田んぼを見ると、きれいな四角形に区画されています。これは、田植え機やコンバインなどの農業機械を効率よく使い、水の管理をしやすくするためです。また、一つ一つの区画は別々の人が所有していることも多く、一人の農家が離れた場所に複数の田んぼを持っていることもあります。
- そして、田んぼが作り出す四季折々の風景は、日本の美しい風景の一つです。春は水を張った田んぼが空や山を鏡のように映します。夏は一面の緑のじゅうたん、秋は稲穂が実った金色のじゅうたんになります。そして冬には、地域によっては雪や霧の中に静かな田園風景が広がります。
- 田んぼは、単に米を作る場所ではありません。日本の食文化を支え、昔から日本の風景そのものを作ってきた場所でもあるのです。
明治維新
- 江戸時代、日本は外国との交流を厳しく制限する鎖国政策をとっていました。外国の影響をあまり受けず、国内独自の文化や経済が発展し、二百年以上にわたって比較的平和な時代が続いていました。
- しかし1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が突然現れ、日本に開国を迫りました。幕府は欧米との圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、大きく動揺しました。
- その後、幕府はアメリカをはじめ欧米五カ国と、日本に不利な不平等条約を結び、本格的に国を開きました。特に、天皇の許可を得ないままアメリカとの条約調印に踏み切ったことが、幕府への大きな反発を招きました。
- これに全国の武士たちが強く反発しました。そして、「頼りない幕府に代わって天皇を尊び、外国勢力を追い払おう」という考えが急速に広がりました。これを「尊王攘夷」といいます。
- その中心となった薩摩藩や長州藩は、実際に外国勢力と戦うことになります。しかし、欧米の近代的な軍事力の前に敗れました。そこで彼らは、武力で外国を追い払うのは現実的ではないと悟り、考えを大きく変えます。「古い幕府を倒して、外国に負けない近代国家を作ろう」と考えるようになったのです。
- やがて薩摩藩と長州藩などが中心となって幕府を倒し、天皇を中心とする新しい政府を作りました。1868年のことです。
- このように、19世紀後半に江戸幕府が倒れ、日本が天皇を中心とする近代的な中央集権国家へと大きく変わった一連の改革を、「明治維新」と呼びます。
- その後、新政府は軍隊、教育、産業、鉄道など、さまざまな分野で急速に近代化を進めました。そして数十年のうちに、日本は欧米列強と肩を並べようとする近代国家へと成長していきました。
- ここで面白いのは、最初は**「外国人を追い出せ!」という考えから始まった人々が、外国の強さ際に知ると、「外国に負けない国を作ろう!」**と考えを180度転換したことです。その大きな方向転換が、日本の急速な近代化につながったのです。
日本キリスト教史
- 1549年、フランシスコ・ザビエルによって鹿児島にキリスト教が伝えられました。現在、鹿児島市内にはザビエルの記念碑があります。その後、キリスト教は日本各地に広がっていきました。
- 当時は大航海時代であり、特に九州などの大名の中には、ポルトガルなどとの南蛮貿易の利益を得るため、キリスト教の布教を保護する者もいました。中には自らキリスト教徒になる大名も現れました。
- また、宣教師たちは教会を建て、教育や医療、慈善活動なども行いました。こうした活動も、キリスト教が民衆の間に広がる一つの要因となりました。
- しかし、当時の権力者豊臣秀吉、そしてその後の江戸幕府は、キリスト教徒の強い結びつきや、外国勢力との関係などを警戒し、次第にキリスト教を禁止し、信者を弾圧するようになりました。その象徴的な出来事の一つが、1597年、長崎で26人のカトリック信者が処刑された「日本二十六聖人の殉教」です。現在、その場所の近くには記念館があります。
- 江戸幕府による禁教が続く中、1637年に島原・天草一揆が起こりました。キリスト教徒が多く参加しましたが、宗教だけが原因ではなく、重い年貢や領主の厳しい支配なども大きな原因でした。一揆の鎮圧後、幕府はキリスト教への取り締まりをさらに強化しました。
- キリストや聖母マリアなどが描かれた絵や像を踏ませる「絵踏」によって、キリスト教徒かどうかを調べました。また、すべての人を仏教寺院に所属させる「寺請制度」も、キリスト教徒を監視・排除する仕組みとして使われました。
- しかし、表向きは仏教徒を装いながら、200年以上にわたって秘密裏にキリスト教の信仰を守り続けた人々もいました。現在、彼らは「潜伏キリシタン」と呼ばれています。
- 幕末の開国に伴い、外国人居留者のために再び教会が建てられ、外国人宣教師も来日するようになりました。1865年、長崎の大浦天主堂で、潜伏していた信者たちがフランス人神父に自分たちの信仰を告白する「信徒発見」と呼ばれる歴史的な出来事が起こりました。
- 江戸幕府に代わった明治政府も、当初はキリスト教の禁止を続けました。しかし1873年、キリスト教を禁止する高札が撤去され、事実上、キリスト教の禁教政策が終わりました。
- その後、プロテスタントも広がり、新島襄や新渡戸稲造など、多くのキリスト教徒が教育や社会活動の分野で活躍しました。キリスト教は信者数としては日本では少数ですが、近代日本の教育や福祉などに大きな影響を与えました。